2021年5月23日礼拝「啐啄・聖霊の助けと守り」

使徒言行録2章1-12節

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)、教会が誕生した日として記念し、教会の原点を確認して礼拝を捧げます。
 ペンテコステ事件の、その時の様子を使徒言行録から読ませていただきました。ペンテコステ事件には背景・伏線があります。まず、その伏線について見つめてみましょう。
 最近、雨が多いですから、時々虹を見られるようになりました。虹はきれいですね。でも虹の周りには雨の名残があって、虹のすぐ外側は灰色によどんでいるのをご覧になったことがありますか。虹は、あの暗い縁取りの中で透明感のある輝きを放っています。
 ペンテコステは、現象だけをみれば、突然風が吹くような音がして、弟子たちの頭の上に舌の形をした炎のようなものがとどまり、弟子たちが突然いろんな国の言語で語り始めたと、その様子が報告されています。驚くような事件、現象が起こりました。そして、その出来事を皮切りに、弟子たちはしっかりと歩んでいくようになったというのです。しかし、彼らが力強く輝きはじめたことには背景があるのです。虹が灰色の雲を抱えるように暗く重い背景があります。
 それは、イエスに従いながらも、最後まで主イエスを誤解し続け、最後には逮捕を恐れてイエスを残して逃げ去り、その後も否認して裏切ったこと。この躓きと挫折が、イエスの十字架に重なって彼らに生々しい事実として、痛々しい事実として、深く刺さり続けていました。
 けれどもあの日の記憶、そう最後の晩餐の時の記憶もまざまざと刻まれています。イエスはあの晩餐の食卓で、自分たちのことを案じ、いたわり、自分たちの弱さや躓きを予告しながらも、自分たちのとろに戻ってくると言い残して、ゲッセマネに、そして十字架に向かっていかれた。そしてほんとうに、復活してから、逃げだし裏切った自分たちのところに現れて、自分たちを包み、何も言わずに招いてくださった。弟子たちは、復活のイエスに出会い直すことによって、自分たちと主イエスとの出会いの意味合い、関係のほんとうの意味合いに気づかされていったのでした。ペンテコステ事件の伏線がここにあります。
 ペンテコステが起こったことのもう一つの背景には「一緒に、集まっていた」ということがあります。弟子たちは一緒に集まって祈っていたのです。深い悔恨の念を抱きながらも、主の十字架と自分たちの赦しの問題とを結び合わせて集まっていました。主の復活と自分たちの再生の関係を考えながら集まって祈っていました。自分たちがこれから歩んでいく道のことを、主に示されたいと願って一緒に祈っていたのでした。聖霊は、そんな弟子たちに迫ってきたのです。
 考えてみれば不思議です。だいたいからして、弟子たちが「一緒に居られた」ということ事態が普通あり得ないことです。主イエスに対しても、かつての仲間たちに対しても顔向け出来ない事をしてしまった者同士なのですから、普通ならば絶対に集まらないです。集まれないです。メンバーの中には、女性たちもいました。イエスの肉親もいたようです。早々と逃げ出した者もいれば、十字架のふもと近くまで悲しみながら着いていった者もいました。「誰が誰を責める」ということを始めたなら、たちまち修羅場になるような間柄、人間としてとても耐えきれない状態にはまり込んでしまう集団だったと思います。けれど、不思議にも彼らは集まることができていたのです。「罪責を身に帯びた人々」が「復活の知らせを聴いて」集まっていたということが、普通なら想像し得ない集まりを形づくっていたのです。
 十字架の躓きによって自分の弱さをきちんと知らされ、復活のイエスによって癒やされ励まされる経験。十字架と復活を自分自身の罪と赦し、崩壊と再生の出来事として捉え直していく、自分とわたしたちとを、そのように十字架と復活に結びつけながら捉え直していく集団。このような人々の集まって祈っている場にあっては、もはや互いの「過去」や「失敗」が決定的な問題にはならなかった。いえ、そうだからこそ、その真ん中には復活のイエス以外が立ちようがないことを知って、主を待ち望んでいる、そのような集まりこそがペンテコステ事件を引き起こした状況だったのです。このような場にこそ聖霊が降臨したのです。
 みなさんは「啐啄」という言葉、啐啄という関係のことをご存じですか。「啐啄同時」「啐啄同機」という言い方をします。禅の言葉で、「機を得て両者が相応ずること」という意味です。「啐」は鶏卵が孵化(ふか)しようとするときに殻の中で雛が鳴きながらつつくことで、「啄」は、それに呼応して親鶏が外から殻を噛む、あるいはつつくことです。これが同時に行われることが大切で、呼応しないと殻は割れずに命は閉ざされてしまうわけです。
「啐」の状態。人間的な思い込みからくる破れや限界。それらを知りつつ、そのような弱い自分たちに「生きる世界」を与えてくれる主イエスの呼びかけを待っていた弟子たち。彼らは祈りを通して、主の「啄」の業を求めて鳴い(泣いて)ていたんです。そこに、聖霊が下った。この啐啄同時の出来事によって、弟子たちは殻をやぶって、殻から外に出て、新しく誕生したのです。教会が誕生したのです。それがペンテコステ事件であります。

 その日、風が吹くような音が聞こえ、炎のかたちをした舌のようなものが弟子たちの上にとどまり、そして彼ら彼女たちはあらゆる国の言葉で語り始めました。使徒言行録にはその日人々が聞き取った言語のリストが出ていますが、まさしく当時の地中海沿岸世界を網羅しているリストです。
 不思議な出来事です。しかしこの出来事の真意は、すべての人々と出会うための関わりの力、対話の力が備えられていったことを指し示しています。弟子たちが内的に高められた、一段高い人間になった、とかの「内面の高揚」が問題なのではありません。あくまでも「外」です。「他者」です。「内ではなく外」へと道が敷かれたということがこの日の出来事の意味です。ペンテコステに彼らが手にした新しい言葉こそ、他者の悲しみや痛みへの共感の言葉、いたわりと慰めと励ましの言葉、そして癒しと救いの言葉だったのです。
 使徒言行録を読んでいきますと、聖霊が使徒たち、弟子たちに、どのような言葉や行動を授けていったかが随所に記録されています。彼らは、行く先々で人間の苦悩に出会い、それを見つめ、そこにイエスの御名によって歩いていくことを呼びかける言葉を生み出しました。人の優しさに触れ、一緒に寝泊まりしながら礼拝しつつ、使命を求め合う言葉を酌み交わして進みました。彼らの言葉は、投獄されている中に讃美歌となって流れました。途方に暮れている人々に平安を告げる言葉を醸し出しました。不利な裁判の中でも、神に聴き従うことの方が大切だと堂々と語る言葉でした。ペンテコステ以後を生きる弟子たちは、イエスの愛と赦しと祝福を、時には命がけで言葉にしていきました。そして、その弟子たちの言葉は死ぬことなく、今日にまで世界に響いて人々を立ち上がらせています。
 聖霊を受けた人々の言葉は、この新しい言葉は、優しさにあふれ、堂々としていて、憐れみ深く、平安を語り、確信と希望に満ちていたのです。人と人、心と心を結びゆくイエス・キリストの愛の力のこもった言葉を受けて、教会は生み出され、動いていったのです。
 こうしたトピックスからミャンマーのことを連想することは良くないことなのかもしれません。しかし、人間を結びつけていく新しい言語という点で考えさせられることがあります。ミャンマーは、他民族国家でカチン族、カヤー族、カレン族、モン族、ビルマ族、ラカイン族、シャン族という大きな部族と、そのもとにさらに140にも及ぶ民族が存在していてそれぞれが州を形成し、違った文化と言語とを持っているそうです。公用語はビルマ語と英語ですが、ある年代以上の人たちはそれを学ぶことも無かったせいで、それぞれの言葉がお互いほとんど聞き取れないのだそうです。そのような互いに隔絶していたミャンマーですが、しかし、2月1日の国軍によるクーデター事件以降、人々は、二度と軍政はごめんだ、二度とクーデターを赦してはならない、という心を一つにして、不服従抵抗運動にあらゆる年代が呼応して粘り強く闘っておられます。国軍による弾圧は熾烈を極め、すでに800人以上が殺され、4000人以上の人々が拘束され、村が焼かれ、おびただしい人々が、自分の村を追われ、州をまたいで逃げています。それを、違う民族の人々が受け入れ、助け、わずかな食べ物を分け合っています。平和を、民主主義を取り戻さねばならない。けっして国軍支配の時代に戻らせてはならない、たとえ自分の身がどうなろうとも今日、抵抗しなければならない。声や行動を奪われるなら、抵抗の印の人形を道においてでも表現しなければならない。そのように、異なる言語を超えて、共通の言語、願いと希望を一つとする新しい言語がそこで創造されているのです。その言語とは思想のことです。文法をもった言語ではないし、整理された思想ではない。しかし、いのちにまつわる、いのちをつつもうとする祈りと響きを一つにした言語であり根源的な思想です。ミャンマーはいまほんとうに試練の中にあります。しかし、私は信じたい。この根源的な言語が、かならず未来のミャンマーの民主主義の根になっていくのだと。主イエスと聖霊は、いま、ミャンマー民衆の心をつくり、新しい言葉を授けてくださっているのだと。だから、わたしたちも、その心、その言葉を聞かなければならないのだと。そして、国際社会とミャンマー民衆とが啐啄同時の働きをしなければならないのではないか、と。そのように考えさせられています。
 一方私たちの社会、この時代に目を向ければ、言葉が通じない、同じ言語を使っているのに話が通じない、心が通い合わない。そういう社会です。気持ちが通い合わないので、互いの行為が裏腹になり、ちぐはぐになっていく。その「ちぐはぐ」さが人間不信となり、個人主義を蔓延化させ、地域と地域、国と国を対立させ、国際危機にまで発展しく、そんな時代です。これはもう通訳機の性能の問題ではなく、互いの「たましい」に響き合う言葉の喪失そのものの問題です。
 天と地、神と人、人と人、心と心、これをつなぎ合わせ、結び合わせる共通の言語が人間の世には必要です。それは政治の言葉ではない、科学の言葉ではない、愛に根ざした言葉、いのちを守ろうとする言葉がこの世界にほんとうに必要です。
 ペンテコステの事件は、初代教会が、ユダヤだけでなく国籍や言語の違う人々に、そしてやがて全世界に広まっていったことを象徴的に示しているの出来事です。実際、主イエスの福音は、それが発生したユダヤの国家的民族的な制限を乗り越えられて伝えられ、「信仰以外の点では」全く共通点のなかった人々を結び合わせていきました。そこにこそ「解放の共同体」としての教会のほんらいの姿が示されています。
 現実の教会が、私たち市川八幡キリスト教会が、このようなほんらいの教会の姿を映しているかと言うとそうではなく、よけいなものもたぶん抱えていたり、ここで語られる言語はこれだ、と硬直化しているかもしれません。ですから、わたしたち教会は、常に聖書の真理に照らして自己変革を求められているのだと思います。教会(私たち)は、つねに聖霊を受けて、改革されるべき教会であると思います。
 体内を流れる血液が、老廃物を運び去って新しい栄養を運んでいくように、きっと聖霊、すなわちキリストの力が教会(私たち)を常に新しくし、神と人、人と人、心と心を結び合わせる交わりを作り出してくれることを信じます。私たちがつねに自分に砕かれ、主イエスの解放の力をもとめて内側から殻を破ろうとつついているならば、聖霊は外から私たちをつついて、私たちの殻をやぶり、もう一つ開かれた世界へと呼び出してくださるのではないでしょうか。私たちも啐啄の出来事にあずからせていただきたいのです。

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