2022年1月23日礼拝「わかち合いをやめない」

マルコによる福音書6 章30-44 節

イエスは5 つのパンと2 匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせた。(マルコ6:41)

わずかにそこにあった5 つのパンと2匹の魚でもって、1 万人にものぼる人々の「空腹」を満たされたイエスの御業。この奇跡の記録は私たちをいつも勇気づけてくれます。それにしても、そんなにもたくさんの人々が「飼い主のいない羊のような有様」としてイエスの目に映ったといいます。危険な野に放置され、方向を失い、散らされるままとなり、すぐに痩せ衰え、やがては野の獣の餌食となってしまう。それに等しい人間の渇きと脆さをイエスは感じ取り、人々のことを深く憐れまれたのです。この「深く憐れむ」(スプランクニゾマイ)は「スプランクノン(内蔵)」という語から生じた動詞で、「内蔵がちぎれるほどに痛む」という意味ですから、まさしく共感・共苦の痛みです。イエスはこれらの人たちのためにとことん向かい合われようとなさいます。時間が経つのも忘れて、イエスと群衆は、神のくださろうとしている慰めと救いの言葉の前で一つとなっていたのです。
夕暮れが迫る頃になって、12 弟子たちの心に心配が生じ始めました。この時点で群衆を解散させないと、空腹が人々を襲ってパニックになるのではないか。今なら「各自の責任で」ということでおさまるだろう。そう考えた弟子たちは、イエスに「そろそろお開きにしませんか」と進言するのです。ところがイエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言います。そうです、「ここから逃げるな」と言うのです。
弟子たちは即座に反論します。「私たちがどうやって、200 デナリ(約150 万円)分ものパンを買って来ることができるのですか」と。弟子たちは1 万人もの群衆を前に「200デナリ」という経費を算段しました。大きな難問、複雑な課題を前にした時、私たちもまた、「多額の資金やたくさんのスタッフが必要」と前算段をします。多くの場合、「無理」の理由を探し出して関与を避けようとします。しかし、その算段はほんとうに正しいでしょうか。そのような「正しさ」から「奇跡」は決して生まれてはきません。
「パンがいくつあるか見てきなさい」とイエスは弟子たちに命じます。持っているもの、できることに目を向けるようにと促すのです。見いだした5 つのパンと2匹の魚、それはたかだか一人か二人分の食料にすぎません。しかし、そこからできることがあるし、わかち合うならば増えるのです。何より、神の愛と憐れみこそが、人間の渇きを満たし、人間を支えるのだという真実を、イエスは弟子たちに体験させていきます。【吉髙叶】

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