2023年1月29日礼拝「型破りな人」

ルカによる福音書7 章18-35 節

「行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。・・・わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:22,23)

すでに観てきたように、ルカ福音書だけがバプテスマのヨハネの誕生の経緯を記していますから、ルカのヨハネへの注目度がとても高いことがわかります。にもかかわらず、マタイやマルコが、そのヨハネからイエスがバプテスマを受けたと記すのに対して、ルカはこの両者の接触を書きません。誕生の経緯を念入りに書きながら、しかし両者の接触には触れない。ここに編集者ルカの「時」についての明確な理解が反映しています。つまり、バプテスマのヨハネは「メシア待望」に生きてきた「イスラエルの時」の締めくくり(終結)をあらわす人物であり、「イエスの時」は、それまでの流れとは断絶された「メシアの時」として、まさに「歴史の分かれ目」がここにあることをルカは強調しています。獄中にいたバプテスマのヨハネが、イエスの宣教の様子にたいへん戸惑い、心に迷いが生じてしまったのも、それまでのイスラエルのメシア像やヨハネ自身が理解していたメシア像とどうにも合致しなかったからでした。「あなたですか?、それとも別の人を待つべきですか?」。獄中にあって焦りにとらえられていたヨハネは、自分の弟子たちをイエスのもとに遣わして確かめようとしたのでした。
ヨハネの弟子たちが駆けつけたときは、折しもイエスが様々な症状に苦しむ病人を癒やしていたときでした。イエスはヨハネの弟子たちの質問に対し、目の前で起こっている事実そのものを示します。いま、この人たちに起こっていることを見、そのままをヨハネに伝えよと言うのです。ヨハネが期待していた「メシア出現のイメージ」は、政治的な色彩さえまとった人物が、民全体の前に威厳をもって、大鉈を振るうように登場する様子だったのだと思います。しかし、イエスはまったく違っていました。そして、「生きる悩みに閉ざされてきたひとりの人が、その荷を降ろされ喜んでいる事実をヨハネに伝えよ」と言うのです。「あとはあなた自身が決めることだ」とでも言うように。そして最後に一言、「わたしにつまずかない人は幸いである」とも。
バプテスマのヨハネには自分の抱く「メシアの型枠」があり、それゆえに「つまずき」そうになりました。ヨハネに限らず、私たちもまた「救い主の型枠」に固執することがあります。神についても、キリストについても理想の「型枠」にはめ込んでしまうのです。イエスの言葉、人々への関わり、人々との交わり、その事実に直面し、自らの解放をそこに感じて「イエスこそ主なり」と告白する自由を失わないようにしましょう。(吉髙叶)

関連記事

PAGE TOP