2023年5月14日 召天者記念礼拝「新しいいのちを帯びてあゆむ」

ローマの信徒への手紙6 章1-14 節

キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:4)

キリスト教の教理の中核に「贖罪論」という理解があります。イエス自身やイエス経験を宣べ伝えた初代教会より何世紀も時代がくだって、キリスト教がローマ国教となり、その勢力が拡大していく中で、キリスト教信仰の枠組みが定められていきました。「贖罪論」もその一つです。「人間すべてはアダムの罪によって『原罪』を(運命的に)抱えてしまっており、自分自身の力では神から義とされることはできない。ただ、神が天より遣わした救い主(イエス・キリスト)の死によって贖われるしかなく、それによって人間は救われる」という枠組みです。人間が自分の罪性を認識し、「罪に満ちた自己存在をどうすれば洗い清められるのだろうか」と苦悶することは、人間にとって大切な出来事ですし、人間の努力では自らをいかんともし難いのだと理解する点もその通りだと思います。
ですから「贖罪論」はとても意味深い信仰理解です。
ただし、「贖罪論」の根拠にされているパウロの論述はというと、必ずしも「自分の罪が清められること」つまり「罪性からの洗い出し」の奥義を説いているのではなく、6章の冒頭にあるように、(イエス・キリストの信仰に包まれた人間は)「罪の中にとどまるべきでしょうか」「なおも罪の中に生きることができるでしょうか」と、「生き方のこと」、「いかに生きるかということ」を考えています。4 節に「わたしたちも新しい命に生きるため」とあり、8 節に「キリストと共に生きることにもなると信じます」とあるように「生きるため」にパウロはこれを書いているのです。この一点を心に留めて6 章1-14節を読めば、この部分は決して「人間の罪と救い」を論じた教理なのではなく、むしろ新しいいのちを帯びてあゆむ生き方(キリスト者の生)を呼びかけているのだということがわかります。ユダヤ主義の呪縛やローマ支配に影響され、どうしても人間の中に優劣や差別や暴力や支配が持ち込まれ、人間がとても疎外されている現実の中で(それはまるで死が勝利し、死の力が猛威を振るっているような世界だけれども)、そのような状態(死)に支配されているような生き方をしている自分にこそ死に、そこから新たに「生き返った者として」(13 節)生きていこうではないか。それこそが「バプテスマを受ける」ということが意味することなのだとパウロは語るのです。洗礼は「洗う礼」ですから、とかく「清められる」儀式のイメージです。でもそもそものバプテスマは「洗い」を意味していません。「いったん死んで、新生する(生きていく)」ことを象徴しているのです。(吉髙叶)

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