2022年11月6日礼拝「瓦礫の中で、立つ」

ネヘミヤ記2 章11-20 節

わたしはエルサレムに着き、三日間過ごしてから、夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた。(ネヘミヤ2:11-12)

「城壁の再建」という使命を抱いてエルサレムに帰ってきたネヘミヤたちの目に飛び込んできたのは、かつては城壁として積まれていたたくさんの石が、破壊されたまま瓦礫の山脈のように横たわっている光景でした。破壊の姿をある程度は想定していたネヘミヤではありましたが、その現実は少なからぬ衝撃を彼にもたらしたでしょう。そのようなネヘミヤが、まず為したことは、黙考・黙想の時を持つことでした。
彼は、考えたのです。深く思考したのです。「帰ってきた、さあ始めよう」ではなく、何をつくらねばならないかを改めて考えてみる。帰ってきた場所で、本当に帰っていく場のことを思想していく。真に帰る場所、真に建てあげるもの、それは何なのか。その黙想に続いて、彼は改めて崩れた城壁の検分に出かけます。瓦礫の中に自ら立つ。瓦礫の街を歩き、その目で見て回る。そしてまた熟慮する。このネヘミヤの初期行動を心に留めたい思います。きっとバビロニアで想像し、バビロニアで計画した時に描いたものではない、別の何かを見せられたのではないでしょうか。
私たちの目の前にも崩れかけた社会、崩れていく世界が広がっています。瓦礫の様相、それは人間の精神に打撃を与えます。ウイルス、災害、不況、貧困、差別、政治の頽廃、そして戦争。そうした瓦礫の実態は人間の魂を蝕み、アパシー(無感覚)を流行らせます。ともすると、瓦礫の世界には、人間の欲望と快楽の放出の場が立ち上がり、またあっという間に暴力と憎しみが立ち上がってしまいます。でも、それが、そここそが、私たちが立ち直したり、奮い立ったりしていく場所でもあるのです。瓦礫の世界に立つ時こそ、実は、人間に深い問いかけが届いている時でもあります。帰るべき場所、人が生きる場所はどこなのか。建てあげるべき城壁とは何なのか。そもそも、人を守り、人を支え、人と人とが交わりを得て生きる社会の枠組みや輪郭はどのようなものなのか。そして教会は、教会の証しする福音は、その社会の中でどのような役割を担っていくのか。瓦礫の中に立ち、祈り、考え、神を呼び、声を聞く。私たちの礼拝は、そのような営みであろうと思います。イエスを主と仰いで生きる。その信仰の群れ=教会の一員になる。それは、既にできあがっている「ハッピーランド」に入っていくことではありません。瓦礫の中に共に立ち、一緒に祈り、考え、協働して「神の国」の一片を現実(かたち)にしていこうとする歩みに加わっていくことなのではないでしょうか。【吉髙叶】

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