2021年11月28日礼拝「慰めの主を抱きしめて」

ルカによる福音書2 章22-35 節

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカ2:29-30)

「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」
わたしは、ここに聖書の祝福する一つの人間像があると思います。それは、人々が慰められることのために祈り続ける、たとえ小さくとも優しさを手放さない人間像です。たとえば、私たちは10 年前の衝撃、すなわち東日本大震災の被災や原発事故の悲劇か
ら、人々やこの社会が立ち直っていくことを祈り続けてきました。そして再生の道のりが途方もない時間と努力を必要としていくがゆえに、祈りのスパンもまた深く長くなることを知らされてきました。また今回のコロナパンデミックの中でも、またミャンマーのクーデター事件の中でも、こんなに苦しいのにどうにも手が出せない人間の弱さを思い知らされながら、しかしだからこそ私たちに残された業として「あきらめずに祈り続ける」ことの大切さを感じてきました。
「待ち望みながら祈る」行為の本質には、「痛みへの優しさ」と「思い通りにいかないことへの忍耐強さ」と、そして「希望へのねばり強さ」があるのだと思います。いまも私たちに呼びかけられているのは、まさに老人シメオンを通して示されているように、神への信頼と希望を捨てないで忍耐強く祈っていくことでしょう。しかも、神が愛してやまない多くの人々が、とりわけ悲しんでいる人々が、「慰められることのため」に祈ることではないでしょうか。
長く生きてきたシメオンが、この世の華やかなものの出現に接しながらも、それまで決して満足を得ることができなかったように、私たちもまた、この世の力に惑わされず、それらに満足もせず、待ち続けていかねばならないのだと思います。何より、私たちは、人間の力がどうにも届かず、またこの世の力では解決できない、そうした人間の苦しみがあることを忘れないでいたいのです。人間が簡単に差し上げることのできない慰めを、にもかかわらず人間はたましいの中から(存在の奥底から)求めているのだということを忘れないでいたいのです。
シメオンが求め続け、祈り続け、待ち続けたように、人々が慰められることのために生きている、このことを今日のキリスト者の使命(役割)と理解し、「たたずまい」としていたいと思います。【吉髙叶】

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