2021年11月21日礼拝「流れる水となる」

詩編147 編12-20 節

御言葉を遣わされれば、それは溶け、息を吹きかけられれば、流れる水となる。(詩147:18)

1608年、イングランドで小さなクリスチャンの集まりが、オランダのアムステルダムへ避難していきました。そのクリスチャンの集まりの牧師はジョン・スマイス。そして彼に続くトマス・ヘルウィス。アムステルダムで、彼らは、「全ての人は皆神さまによって救われる」ということを信じていました。後に「オランダのアムステルダムに居留するイギリス人の信仰宣言」というものを作っています。彼らは今では、ジェネラル・バプテスト派と言われています。またその一方で、英国国教会から分離した教会から更に分離し、リチャード・ブラントを初め、ロンドンに教会を作りました。彼らは、バプテスマを受けた者だけが救われるということを信じていました。彼らは今では、パティキュラー・バプテスト派と言われています。彼らは「救い」ということに関して意見は違いましたが、バプテスマという自分自身の意思で、水の中に全身を沈めるということでは一致していました。自ら決断し、イエス・キリストと死を共にし、イエス・キリストと新たに生きるということを表していたようです。
彼らは、「自覚的」ということに重きをおいていました。聖書を何度も読み、解釈し、学んできました。そのために何度も分離を繰り返し、別れを告げ、迫害されながら、また国をも相手取って闘ってきたのです。国からの「これを信じなさい」「このように信じなさい」という圧力に抵抗し、国が教会の信仰の領域に踏み入れてはならないと、政教分離と信教の自由を作り上げてきました。聖書の言葉を信じ、自覚的な信仰告白からイエス・キリストと共に水の中に身を沈め、イエス・キリストと新たに生きる。それがバプテストにとって核心的なものだったのです。
水は、聖書の時代において大変貴重なものでした。乾燥した土地が多く、川が無くなることもあります。生きるために水は欠かせません。私たちの心にも水のような、生きるための潤いを欲することがあります。バプテスマのように、心を水に沈めて潤し、また心を新にしていくのです。しかし、それとは逆に、心を水に沈めたことによって、苦しくなり、空気を欲し、水から這い上がることもあります。神さまはそのような私たちに、聖書を通して、語り掛けます。「息を吹きかけられれば、流れる水となる」私たちは今日も流れる水によって、心が動かされていくのです。【嶋田健治】

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