2024年1月14日礼拝「黙々と水を汲む」

ヨハネによる福音書2 章1-11 節
イエスが「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。(ヨハネ2:7)

『ヨハネによる福音書』は、一貫した明確な宣教主題(メッセージ)のもとにイエス・キリストの生涯、その業と言葉とを描き出しています。そのメッセージとは、「神の天地創造の想い、すなわち生命への祝福と愛は、暗闇を生きる人間の中に今こそ受肉(じゅにく)し人間の間で光となられた。この光こそ人となられた御子(みこ)イエスのことである。誰でもこのイエス・キリストのいのちの光によって、この世での平安と永遠のいのちを与えられるのだ」というものです。本日の「カナの婚礼での奇跡」もその宣教主題のもとで描かれていますし、この主題に向けた「しるし(象徴するエピソード)」なのです。
「婚礼の席」とは「人生の喜びと祝福」を象徴しており、婚礼の席の「平安」を保証するのが「ぶどう酒」です。婚礼の準備が整ったとは、ぶどう酒が準備できた状態のことであり、祝宴を続けられるのは、ぶどう酒が供給できる状態のことです。その上で、「婚礼の席のぶどう酒が尽きる」という緊急事態をもって、「人生には人間の想定や推量や備えを超えた苦境が襲いかかり、その危機の前で人間は無力であり、それまでの喜びが悲劇へと転じ、絶望や死の支配に一瞬にして呑み込まれてしまう」という人間の現実を描き出しているわけです。しかし、わたしたちがしばしば見聞きし、時に直面する「人生の危機」の実際は、「ぶどう酒が無くなる」ぐらいの例(たと)えでは、あまりにも軽すぎます。
「ぶどう酒が無くなった? ふざけるな! こっちは家が倒れ、流され、家族が死に、避難所にはなんにも無いんだ! 水さえ無いんだ!」というぎりぎりの叫びの前で、「ぶどう酒ごとき」の奇跡をひけ散らかし、まさか「人間にほんとうに必要なものは、天からの救いと永遠のいのちです」などとの説教に持ち込むなら、その聖書の読み方は「非情・薄情」な読み方だとしか言えません。被災した方々が失われたもの、まさに涸れ尽きようとしている「生きる力」のことを懸命に想像し、また心配し、「どうか一人ひとりの必要が満たされ、生命がつながれ、明日への力が宿りますように」と祈りながら、「水がぶどう酒に変わる」出来事について考えていかねばならないと思います。もちろん、わたしたちは神でも救い主でもありません。また当事者の苦しみやその人々の必要を知り尽くすことなどできないです。でも、それでも、「なぜ、水瓶に水を汲んで運ばねばならないのか」の意味がわからぬまま懸命に水を汲んで運んだ給仕役たちの「仕事」の意味合いを、今と自分たちに引きつけて考え、できることを見いだし、取り組んでみるしかないのです。

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