2024年1月21日礼拝「井戸辺の覚醒」

ヨハネによる福音書4 章1-26 節

わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:21)

『ヨハネによる福音書』が編集され読まれていた時代は、AD100 年頃と考えられています。エルサレムの町や神殿がローマ帝国によって破壊されてしまってから既に30 年を経過しています。ユダヤと同様にサマリアの人々の町もゲリジム山の神殿も破壊され、北も南もなく「イスラエル」の子孫たちは地中海沿岸の各地に離散してしまい、世代も重ねていた、そんな時代です。当時のキリスト教会(第2 世代の初代教会)のメンバーは、もはやローマ帝国の下層社会を形成している多種多様な属性の人々によって構成されていました。ローマ帝国のクリスチャン迫害は過酷を極めましたが、弾圧・差別をかいくぐりながら共同体は結びつきを強め、ネットワークは広がっていきました。
初代教会(クリスチャン集団)は、初めは「ユダヤ教イエス派」的な出発をしたのですが、やがて「ユダヤ教」的な歴史観や救済観から解放され、神殿祭儀や律法などの宗教体系にこだわることなく、御子イエス・キリストへの信仰を抱く人は誰もが「新しく生まれた者」「救いに与る者」なのだと信じ、どこにいても神の聖霊は働いてくださって、神を礼拝する者を支え、励ましていてくださることを宣べ伝えました。ヨハネ福音書4章に記されているイエスとサマリアの女性の対話、特に「真の礼拝はエルサレム神殿でなすべきか、それともゲリジム山神殿でなすべきか」をめぐっての問答は、もはやそのような「場所」に囚われることのない「新しい時代」「自由に吹く聖霊の時代」の礼拝(礼拝者)の姿を印象づけています。
その中心主題に向かっていくイエスとサマリアの女性の井戸辺の対話が実に豊かで面白いです。どうにも噛み合っていないのですが、互いがどんどん深く絡みあっていくのです。「井戸」「水」「渇き」「潤い」・・・。人目を避けて井戸に水汲みに来ていた女性。男たちの身勝手によって人生を搾取され、生きることに渇きをおぼえてきた一人の女性の、「自己の意識化」と「覚醒」の様子を描きながら、「尽きることなく人間を潤してくれる『いのちの水』の源泉とは何か」というテーマに読者を引き込んでいきます。
いまわたしたちは、能登半島地震の避難所で懸命にサバイブしている方々に、途絶えることなく「水」が届けられることを願い、祈っています。でも、それと共に、被災された方々が、希望を見失いかけておられるのであれば、希望につながる水が、その一人ひとりの中で湧き始めてくれるようにと、そのことも祈っていきたいのです。吉髙叶

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