2021年9月26日礼拝「委ねながら道を踏む」

箴言16 章2 節、9 節、25 節

人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。(箴16:2)
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴16.9)

人間は、いつも何かを欲し、「それ」を求めて生きています。自分の思いから生じる「良いもの」を求めています。でも、それがほんとうに自分にとって良いものかどうなのかは、まだわからないのですから、「委ねる」という余地・余白を持たない祈り(求め)は、実は危ういものでもあります。キリスト教教育者で思想家の羽仁もと子さんは、『野の花の想い』という著書の中でこう書いておられます。長いですが、引用させていただきます。

「神を信じましょう。空からも地の底からも、それからそれと、どこまでも、われわれの知らざる力が出て来るではありませんか。物質の世界の驚異であるよりも、さらにさらに感嘆すべき霊の世界にわれわれは住んでいるではありませんか。その双方の世界からあらゆるものを発見して、かぎりなく新しいものをつくり出し、古いものをいかしてゆくのが人間の役割です。そしてそれは、尽きることも消えることもない無尽蔵な富みに頼り、かつ『恐れるな小さき群よ、汝らにみ国を賜うことは汝らの父のみこころなり』という保証つきでしている仕事です。長い間かかっても、これが心に熟してくれば、人間は何のために生きているという呟きに対して『おもしろいから生きている』と無造作に答え得るものになります。
この感謝すべき人間楽の立場から、この世の中の人間苦を見るときに、センチメンタリズムとは質の違う、本当の涙がでてきます。そうしてそれはまた本当の人間楽を知るものの避くべからざる人間苦です。そしてこの苦とこの涙は、人間の進歩になくてはならない力また手引きです。あれが苦しい、これがいやだといって、あてもない楽しみを求めている人に、決しておもしろいことは来るものではなく、神の国とその義を求め、神を信じつつ我を忘れてあらゆる人間苦と良き闘いを闘うところに、あらゆる楽しさ、満ち足りる興味が湧きだしてきます。」(『野の花の想い』1960 教文館)

「人間楽」とはなんとものんきな響きにも取れますが、「神が人間を支えている」という事実のことであり、神に生かされていることを想い、委ねつつ道を進むことができることを意味しているのでしょう。避けたかったけれども、それが叶わなかった苦しみに、私たちは遭遇することがあります。そこにあって、尚も良い闘い、意味が生じてくるような闘いができますようにと、顔を挙げて、道を踏みたいと思います。【吉髙叶】

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