詩編23 編1-6 節
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。(詩23:1)
「わたしは良い羊飼い。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:14,15)
主イエスがそうおっしゃったとき、おそらくは詩編23 編を念頭に置いていたと思われます。聞いている弟子たちの脳裏にも、それがよぎったことでしょう。「命を捨てる」の意味合いを弟子たちがどれほど理解できたかはわかりませんが、ヨハネ福音書は、この主イエスの言葉の後に、ユダヤ人指導者たちによる「イエス謀殺」の動きが強まっていく流れを明確に記しています。詩編の一見牧歌的な風景とも重なる「なぞらえ話」は、着々と身に迫る危険と、それでも「この道」を進もうとするイエスの並々ならぬ覚悟から発せられた言葉でした。そう、主イエスは羊飼いの仕事を見つめていたのです。
羊飼いの仕事(役目)は、まず、何といっても羊の群れに糧を与えることです。映像でよく目にするオーストラリアなどでの牧羊の風景とは異なり、パレスチナを生きる羊飼いと羊たちの舞台は荒れ野です。ところどころに点在する草場を探しあてて羊たちに糧を取らせる、それが羊飼いの役目です。そのために、進み易く安全な道に羊たちを導き、道を外れた羊を群れに戻し、窪みに落ち込んだ羊を引き上げて助けること、これも羊飼
いの仕事です。そして、荒れ野に生息する獣を追い払い、時に闘うことです。このようにして、羊飼いは、羊たちの安全と成長に責任を持つのです。その仕事は、時に命がけ
で果たされるのです。
主イエスは、こうした羊飼いの役目と責任を自らのものとして完全に受け止めていかれます。しかも“命をさえ投げ出す”責任を噛みしめられておられます。そして、“敵の前に宴を設ける”がごとく、主イエスは、「苦しめる者(十字架と死)」の面前で「約束の晩餐」を設け、「取って食べよ」と自らを与えられていきます。十字架は、“憩いの汀”への、避けることのできない闘いでした。
羊の生きる道は、ただただ、この良き羊飼いへの「依存と信頼」にあります。この羊飼いの命がけの生と愛を受けることにあります。
人生には、危機があります。踏み外しがあり、迷いがあり、なんらかの「敵」に襲われそうになります。しかし、良き羊飼いは私たちの危難に伴い、闘っていてくださいます。迷い出たなら探し出しに来て下るのです。主イエス、この真の牧者へ依存し、信頼すること。私たちの命の道は、そこにあります。【吉髙叶】