マルコによる福音書 9 章 33-37 節
わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者はわたしを受け入れるのである。(マルコ 9:37)
「叶先生、苦しい時って、お祈りの中から余計な言葉は全部吹っ飛んでしまいますね」。
私がずっと尊敬してきた方、そう、私の子ども時代の教会学校の先生で、教会の執事をなさっていた一人の男性が末期ガンに苦しんでいて、また同時にお連れ合いもガンに倒れられたと伺って、その方を見舞いに故郷・高松の病院を訪問したときに、喘ぐような声で語りかけられた言葉でした。30 年以上も前のことですが。
私の中でのその方の記憶は、凜々しくかっこいいスーツ姿と惚れ惚れするような低音の美声で礼拝の司会をなさる様子でした。そんな彼が、見る影もなくやつれ果て、弱々しく身を横たえたベッドの中から手を伸ばし、私の手を握り、目に涙を溜めてそう仰ったのでした。苦しい時には、祈りの中から余計な言葉は吹っ飛んでしまう、と。苦しい時、痛いとき、そのような時には「神よ憐れんでください」「主よ助けてください」と、あらゆる形容詞・修飾語がそぎ落とされた言葉しか残らないのかもしれません。
もしかすると「神さま」だけになるのかもしれません。その日から一週間後に息を引き取ったその男性の言葉は、私の心の中にとても大切な余韻と印象を残しました。その「そぎ落とされる言葉」からの連想は、主イエスが孤独の中に祈ったときの「アッバ(おとうちゃん)」という呼びかけの言葉に、私の中で繋がっていきます。イエスはゲッセマネの祈りに際し、苦しみながら悶えながら「アッバ」と神を呼びました。「アッバ」。この語が、イエスが日常語として用いたアラム語の幼児語だということはよく知られています。このような神への近づき方、神からの近づかれ方。苦しい最中にあって、こうした「親(ちか)さ」で神と向かい合い、結びつくことができることを示し、教えてくれているのが主イエスです。
新約学者のヨアヒム・エレミアスは『イエスの宣教』新約聖書神学Ⅰにおいて、「イエスが祈りの中で、神に、アッバと呼びかけているのは、その時代、後にも先にも例のない独特なこと」だと指摘し、「そこにはイエスと神との関係の『中枢』にあたるものが表現されている」と述べています。その中枢・中核的なものとは何でしょうか。形容詞がいらない関係、修飾語を求めない神に向かう装飾しようのない私。このつながり、この交わりの関係なのではないでしょうか。「神の国はあなたのものだ」「あなたは神の子だ」と語られるイエスの宣教の中枢にあったのは、そのことではないでしょうか。【 吉髙叶】