マルコによる福音書14 章1-11 節
世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。(マルコによる福音書14章9節)
一人の女性がナルドの香油と呼ばれていた香水(ソロモン王が魅せられてインドから原木を取り寄せたと言われる高価な香水)が入っていた石膏の壺をもって部屋に入ってきたかと思うと、あっと言う間もなく、その壺の首を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけたのです。その香りはおそらく家中にたちこめたことでありましょう。この女性は、そうせざるを得ない衝動に駆られていたのでしょう、後先のことも考えず、自分の所持していた最高の宝を主イエスに注ぎ、捧げたのでした。一瞬の出来事でした。 あっけにとられていた弟子たちが我に帰ったとき、驚き以上に憤慨に包まれました。憤慨した理由は、食事が中断されたことではありません。高価な香油をだいなしにしてしまったことでした。そして、口々にこの女性のことをなじり始めたのでした。「なんてことするんだ、もったいない。こんな高価なものをだいなしにして!」ふつうに見積もっても300 デナリ以上。今で言うところの300 万円ほどの価値があります。「それだけのものがあれば、貧しい人々に施すことができたのに」と言うのです。
わたしは以前から、この部分にどうして突然、弟子たちの口から「施しの論理」「福祉の議論」が出てくるのかと不思議に思っていたのですが、少し考えてみればよくある話です。今の時代の政治家が選挙が近づくと「福祉」を口にするのとあまり変わりません。弟子たちは彼らなりにイエスが民衆に支持されるための方法を思案していて、資金の必要にも迫られていたのではないでしょうか。それで思わず憤慨したのだと思います。「エルサレムで民衆の求心力を掴んでいくために、多くの貧しい人々に施しをしていけたらいいのだが」そんなことを互いに議論していた弟子たちだったと思います。そして、会計係としてそのあたりを現実的に考えていたのがイスカリオテのユダだったのだと思います。この記事の直後に、「ユダ、裏切りを企てる」という段落が続きますが、ユダがイエスを見限っていくポイントはこういうところにあったのではないかと思います。
そのような思惑や野心から起こった憤慨と怒声の中にうずくまる女性。しかし、イエスは、この女性を最大の賛辞で擁護します。誰もこの女性の、この行為を遮ってはならない。わたしにふさわしいことをしてくれたのだ、と。また「彼女の行為は、後々、福音が宣べ伝えられる所で、記念として語られる」とさえ言います。壺の中味の量や価値よりも、あなたは、それを、いつ、どこで割って捧げるのか、それを問うてきます。【吉髙 叶】