エゼキエル書 8章3-6節
霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。(エゼキエル書8章3節)
「私たちには使命があります。」
76回目の広島原爆記念式典に響いた、子ども代表の二人の小学生による「平和の誓い」の声です。「私たちには使命があります」これが語り始めの言葉でした。そして、その「使命」とは、あの日の原爆の惨劇とその後の悲劇を、自分たちが聴き取り、考え、語り伝えることだと語られたのです。更に子どもたちは大切なこと言い当て、言い抜きました。
「ほんとうの別れは、会えなくなることでは無く、忘れてしまうこと」だと。忘れずに自分たちの世代が心に刻み、それだけではなく次の世代に語り伝えていくこと、それが自分たちの使命だと最後に再び結んだのでした。
大切なことについて考え、自分たちの心に響いたことを、子どもながら精一杯決心して語りました。使命を受け取り、使命を宣言したのです。立派でした。原稿を読み飛ばしながらも気がつかない大人代表の挨拶が情けなるほどに鮮やかでした。
さて、今日は8月6日広島と8月9日長崎の原爆記念日に挟まれた日曜日です。
松井広島市長の平和宣言にもありましたが、核兵器は人間の暴力性の象徴です。一瞬にしてあらゆる全ての存在を蒸発させ、灰にし、無にしてしまう原子爆弾は非人間性の象徴でもあります。核兵器は反生命的な存在です。そして核抑止力という考え方は、この最も暴力的で非人間的な道具によって平和を保とうとする、決定的に矛盾した考え方の上に成り立っています。そのようなものは、人間が立つべき土台ではありません。人間に被されるべき傘でもあり得ません。これこそが、今日の人間世界がひれ伏すことを強要されているもっとも邪悪で暴力的な偶像であると言えます。
今朝のメッセージには「グランド・ゼロ」という題をつけました。グランド・ゼロ。一般的に、爆心地のことを永らくそのように言い表してきました。また、後には9.11同時多発テロで崩壊したニューヨークの世界貿易センタービルの跡地も、そのように表現されるようにもなりました。もともとの意味は、「最も初歩の地点」、すなわち全てをそこから積み上げていこうとする地点のことを意味します。それは、単なるゼロではなく、それまでのあらゆるものが崩壊し、破滅し、無と化してしまった、しかし、そこから新たな一歩を始めて行く、そういう意味での転換点や再出発地点のこと、やり直しの原点のことだと言えるでしょう。
あの日から76年。あの焦土と化したグランド・ゼロから、確かにこつこつと積み上げてきたことによって実を結んだものがあります。今年1月22日に国連の核兵器禁止条約が発効したこともその一つです。いわゆる「黒い雨」訴訟の原告勝訴判決の確定もそうでしょう。あまりにも時間がかかり過ぎましたが、しかし、まぎれもなくそれらは被爆者たちの不断の努力、諦めずに捧げられた祈りの結実でありました。まさしく、グランド・ゼロの悲劇と空しさを忘れず、爆心地に響いていた問いかけの前に立ち続けた人々の誠実と信念がもたらした賜物です。しかしながら、他方では、核抑止力という虚構の力学に今なお依存し、原爆被爆国であるにも拘わらず核兵器禁止条約を批准することを躊躇(ためら)い続けるこの国の為政者たちの姿があります。いいえ、もはや「躊躇う」は間違いですね。管総理は広島の式典後の会見では、むしろ躊躇わずに「条約に署名する考えは無い」と条約参加を否定しました。しかし、乾かぬ舌で「核保有国との橋渡し役を務める」とも仰る。多くの条約締約国の願いに向き合おうとせず、どうやって橋渡しができると言うのでしょう。
広島と長崎というグランド・ゼロを自らの国土の中に持ちながら、その自分の中に刻み込まれたグランド・ゼロに立てなかった。アジアの国々を植民地にし国内外の多くの人々を犠牲にし、沖縄戦を引き起こしたあげくに刻まれたグランド・ゼロ。76年前に、果たして、どこから再出発をしなければならなかったのか、その立脚点を選び間違えているのです。悲劇を記憶すること、記憶して過ちを考えること、考えて悔い改めること。そのような人間の霊性や思想性にかかわるグランド・ゼロに立ち戻れない人々には、決して新しい世界を創ることはできないと思います。
さて、本日の聖書は、エゼキエルが神の幻の中に引き込まれ、空中をワープするようにして、エルサレム神殿の有様をまざまざと見せられる場面です。エゼキエルが幻の中に見ることになったエルサレム神殿は、ありとあらゆる異国の偶像礼拝に冒され尽くしてしまったおぞましい姿でした。カナン地方の神々の像、エジプトの神々の壁画、バビロニアの太陽神の像、人間の欲望が投影された偶像が神殿を埋め尽くしていたのです(今日はその一部だけを読みましたが)。ユダを取り巻く近隣の国々、それぞれの国にあって、人間の欲望の達成、戦争の正当化、民衆支配と収奪のために編み出された装置、それが偶像です。ユダの指導者たちは、それらをヤハウェ礼拝の場に取り込んでいたのでした。
エゼキエルにとってエルサレム神殿は常に特別な存在でした。幼い時から祭司の息子として生まれ、祭司になるための勉強に打ち込んできたエゼキエルにとって、神殿こそが、自分の勉学の根拠であり、青年時代の憧れであり、人生の目標であり、何より社会正義の基準でありました。それは冒すべからずの聖地であり、破るべからずの規範でありました。 更に、バビロニアに捕囚されていった捕囚の民の一人としてのエゼキエルにとって、エルサレム神殿は、帰るべきふるさとであり、取り戻すべき理想であり、まもなく戻ることができるはずの希望の象徴であり、捕囚の屈辱を耐え抜く励みでありました。
しかし、エゼキエルは、今、その良きことの全てであるはずの神殿が、見る影も無く腐敗と堕落にまみれてしまっていたという事実を突きつけられてしまうのです。イスラエルの民を教え導くはずの神殿が、実のところは人間の欲望に浸食され、どれほど永きに亘って、神を欺き、民を欺き、人間の欲望と不正義のための装置となってしまってきたのか。それゆえ、エルサレムは既に崩壊しているのであり(実際に破壊されてしまうのは数年後ですが)、神の神殿としてのエルサレムは、もはや崩れ落ちてしまっているのです。従って捕囚の民イスラエルの人々が、この先、戻るべき所としてのエルサレムなど、もはや失われてしまったことを、エゼキエルは突きつけられてしまうのです。
まさしく、エゼキエルにとって、この荒廃したエルサレム神殿こそがグランド・ゼロであったのです。偶像を祭り上げて人間が人間を支配するという傲慢と、その結果として、不正と暴力と流血の政治がユダの国内に満ち、挙げ句の果てに大国によって完膚なきまでに破壊されてしまうという「グランド・ゼロ」にエゼキエルは、いま立ち尽くしています。
エゼキエルのこれからの預言活動は、ここから始めなければなりません。バビロニアに生きる捕囚の民が、ほんとうに解放と再生を望むのであれば、立たなければならないグランド・ゼロがここにある。この崩壊の原因が何であるのかを省みる場所。ユダは、そしてイスラエルはいったい何を悔い改めるべきなのか。エゼキエルは真の再生のために、心に焼き付けねばならないグランド・ゼロの姿を、いま主によって見せられています。
ところで、そもそも神はイスラエルの民にとって神殿は必要ないと仰ったのではなかったでしょうか。神が民に授けたのはもともとは「十戒」でした。十戒は端的に、エジプトというこの世の武力・財力による繁栄の陰で奴隷とされていく、そのような奴隷状態から神がイスラエルの民を導き出したこと。「あなたという命は、何にも隷属されない自由な存在、神の救いによって解き放たれている存在である」という宣言が十戒の冒頭に響いています。そして、それゆえに、あなたはその解放の神、恵みの神以外を神としてはならないこと、言い換えるなら、あなたは自分を、この解放の受け取り人以外のものにしてはならず、ましてや人間そのものを絶対化したり、神の名をみだりに唱えて人間を神格化したりしてはいけないということを命じます。そして安息日を守って礼拝をすること、父母・高齢者を敬うこと、殺してはならないこと、姦淫してはならないこと、盗んではならないこと、他人を偽証で欺いてはならないこと、他人のものを貪ってはならないこと、そのような人間性と人間の関係性の基礎となることを命じているのが十戒です。この基本に基づいて、神と隣人に向かい合うならばあなたたちは十分に満たされ、十分に平和でいることができるはずだ、と。それが「十戒」なのです。
後に生まれた神殿祭儀(つまり礼拝)とは、この十戒にあらわされた神の恵みと人間の関係性、神の恵みの中を生きる人間同士の関係性を、民に対して、繰り返し知らせるための祭儀であったのです。それ以上でも、それ以下でもない。神殿祭儀は、神の恵みと戒めのためにあるのです。
しかし、エゼキエルの時代、神殿祭儀は、「神の慈しみと恵みとを知らせること」に失敗し、「人は人に対して誠実であること」「愛をもって仕え合うべきであること」を教えることに失敗したのです。そして祭儀する場所に暴力性と欲望の象徴である偶像が持ち込まれてしまったのでした。まさしく祭儀の失敗、礼拝の失敗、です。人間のおこなう礼拝は、よくよく注意していないと、神の戒めやキリストの福音を人々に告げ知らせることに失敗するのです。
もし、礼拝することによって、自分たちに満足し、他人を見下すような気持ちになるなら、その礼拝は失敗しています。
もし、礼拝することによって、人間には美しい人間とそうではない人間がいるかのように感じてしまうならば、その礼拝は失敗しています。
礼拝することによって、自分はまだまだだめだ、このままではだめだと自分は卑下してしまったり、叱責されているように感じてしまうなら、その礼拝は失敗しています。
礼拝することによって、もっと頑張らなければと脅迫観念を抱かせてしまうなら、その礼拝は失敗しています。
礼拝することによって、あのような人にはなってはいけない、と誰かを軽蔑することを学んでしまうようなことがあるならば、その礼拝は失敗しています。
礼拝することによって、この偉い人には服従しなかければならないという気持ちを持たされるようなことがあれば、その礼拝は失敗しています。
礼拝することによって、何々らしくしなければならない、ということを強く感じさせられてしまうのなら、その礼拝は失敗しています。
エゼキエルが幻の中で見せられたエルサレム神殿は、神殿祭儀が失敗していたという事実でした。エゼキエルはその失敗の事実から預言者としての言葉を語り直していくのです。私たち今日の礼拝者たちも、今日において偶像とは何か、そして自らの礼拝は果たして失敗していないか、そのことを深く問いながら歩むべきなのではないでしょうか。そう、礼拝で告げ知らされるべきことは、神の慈しみと恵み、イエス・キリストの解放の言葉と救いの約束以外には、あってはならないのです。【吉髙 叶】