2022年7月3日「いのちのほんらいとみらい」

エフェソの信徒への手紙1 章3-10 節

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して・・・時が満ちるに及んで、キリストのもとに一つにまとめられます。(エフェソ1:4,10)

「エフェソの信徒への手紙」は「手紙」という形式を取りながらも、必ずしも特定の読者の特定の事情に宛てた内容を超え、キリスト信仰の「教義」、共同体の本質、キリスト者の生き方を論述する「まとまりのある説教」であり総括的なトーンを持っています。初期のキリスト者たちは、ユダヤ教・ユダヤ主義の範疇(はんちゅう)から飛び出し、世界の様々な地域で多種多様な人々と出会い、直面していくことによって、福音が内に秘めている「包容性」や「包摂性」に気づかされていきました。人はみな、それぞれ違ってはいても、その人を縛り付けようとしてくるなんらかの強制力や抑圧状態に苛(さいな)まれているのだということ。しかし、イエス・キリストの福音は一人ひとりに、それらからの解放の力をもたらしてくれ、それらを越えていく新しい視野を授けてくれることに気づかされていきました。「伝道」とは、一つの決定的な真理を、知っている人が知らない人に伝えていくということではなく、一人ひとりの覚醒や再発見が繋がったり結ばれたりして新しいネットワークが形成されていくような運動なのです。
さて、そのような出会いの経験の中から、「エフェソ書」の筆者は、その1 章において「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して・・・キリストにおいてお選びになりました。」(4 節)と記し、その文脈の流れの中で「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストに一つにまとめられます。」(10 節)と語ります。人間の存在性についての壮大な観念です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」との驚くべき表現は、「わたしたち一人ひとりの存在は『絶対的に』肯定されている」ということです。存在する意味の無い人間は誰もいない。人間の価値は相対的なものではない。誰もが、その命が生み出されるところから神の愛によって絶対肯定されているのだ。これが「総括的な生命理解」として言い抜かれているのです。そして、時が満ちるに及んで(いまは、まだ途上にあるけれども、やがて行き着く先にあっては)、わたしたちは「キリストのもとに一つにまとめられる」とも言うのです。「まとめられる」というの十把(じゅっぱ)一絡げ(ひとからげ)に束(たば)ねられるイメージではなく、それぞれの枝がキリストという幹(みき)につながって共に繁(しげ)るイメージですが、そのように、神の祝福のもとでの「共生」(相互尊敬、相互依存、相互共存)こそが、すべての生命が迎え入れられるべき未来の姿であることを宣言しています。まさしく「いのちの出発点と方向性」を感じさせてくれる表現です。(吉髙叶)

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