2022年8月28日礼拝「平和の基・不服従と不可能」

出エジプト記20 章2 ~ 17 節

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エジプト20:2)

私たちの教会では毎年8 月に日本バプテスト連盟「平和に関する信仰的宣言」(平和宣言)を朗読しています。この「平和宣言」の特徴的トーンは二つあって、一つは「不服従(従わない)」、もう一つは「不可能(できない)」ということです。
この世のどのような力にも「服従しない」という言い切り方に、ある種の勇ましさを感じられるかも知れません。極端だと言われるかもしれません。けれど、それは人間が造り出す「諸力」に対する限界表明なのです。人間の中から出るどんな力も、私たちを自由にすることはなく、かえって人間を欲望と憎しみと戦争に結びつけてしまうのだと言い抜いた上で、その力を信仰したり、その力に支配されはしない、と宣言するのです。限界表明という点では「不可能・できない」というトーンも平和宣言の特徴です。神の創造の愛によって生かされ、キリストの恵みに包まれ、聖霊の伴いによって歩まされていく私たちは、殺すことができず、性を冒すことができず、盗むことができず、偽ることができず、貪ることができないのです。「しない」ではなく「できない」のです。それを為す力が無くてできない、というより、もともとそれを為す選択肢が私たちには存在しない、という意味合いでの「できない」です。愛されている私たちは愛することだけに招かれており、赦されている私たちは赦し(和解)の道のりへと招かれているのです。生かされている私たちは殺すことができないし、他人を貪ることができないのです。
私たちが自分自身にとっての「限界」をわきまえること。それは唯一、神のみが生命の支配者であり、イエス・キリストのみが救い主であることを告白することと一体となっています。そして私たちが真の意味で「服従」して良いものは、イエス・キリストによって愛を示された神のみです。その他の全ては、どれ一つ、何一つとして「服従」すべきものではないのです。「平和宣言」は不服従宣言です。「平和宣言」はできません宣言です。軍事力に服従しません。経済力に服従しません。核抑止力に服従しません。戦争の大義に服従しません。国家による生と死の価値付けに服従しません。人間が持ち込む性役割に服従しません。私たちには、殺すことができません。盗むことができません。他人を貪ることができません。神によって生かされた誰の命も、誰の性も、誰の尊厳をも、侮り、冒すことはできないのです。不服従と不可能。この人間自身に対する限界認識こそが、「平和の基」として据えられなければならない礎だと思います。【吉髙叶】

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