2022年8月21日礼拝「口から出るもの、平和をたずさえて」

マタイによる福音書15 章10-11 節

イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入ものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタ15:10-11)

マタイ15章は、ファリサイ派の人々や律法学者たちがエルサレムからイエスや弟子たちがいるガリラヤ地方を訪ねて来る場面から始まります。しかし実際は、“訪ねる”というより彼らにとって目障りであったイエスの動向を調査し、対決、排除しようとしていたと思われます。そしてそこで、イエスの弟子たちが手を洗わず食事をしたことに、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「昔の人の言い伝えを破るのか」と非難します。バビロン捕囚のあとイスラエルの民はエルサレムに帰還し、リバイバル、信仰復興運動がおこります。これを機に聖書の解釈が蓄積されましたが、聖書の解釈が聖書そのものより権威を帯びてきたようです。聖書が「成文律法」であるのに対し、言い伝えは「口伝律法」となり、権威の差もなくなってきます。それに対しイエスは「言い伝え」が聖書そのものをないがしろにしている、すなわち神さまの言葉を無にしている、と反論するのです。イエスは群衆を呼び寄せて言います。「口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚す」と。イエスは群衆に訴えます。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることがわからないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出てくるもので、これこそ人を汚す。」これは、言い伝え、もっと乱暴に言えば形式的な信仰が優先される状況を批判し、嘆いているのでしょう。
イエスさまは「口から出てくるものは、心から出てくるもの」と言われました。私のように心が汚い者は、どうすればよいのでしょうか。そう、その時こそが、神さまにすがりつくときではないのか、と私は思います。そして、願わくは、少しでもきれいな心を持ちたいものです。それから塩で味付けされた言葉をたずさえて隣人と接していきたいものです。
8月は「平和宣言月間」です。広辞苑をひらきますと、「平和」には2つの説明が掲載されています。1つは、「戦争がなくて世が安穏であること」。もう1つは「安らかにやわらぐこと。おだやかで変わりのないこと」とあります。昨今、長引く感染症への恐怖や疲れ、また不安定な世界情勢も私たちの「平和」を脅かしています。口から出るものに「平和」をたずさえ、またときには「沈黙という平和」をたずさえて、隣人とともに生きていき、またイエスさまのともないを確信していければ、と思います。【吉田美紀】

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