2023年4月9日イースター礼拝「恐れの真ん中に響いたシャローム」

ルカによる福音書24 章36-43 節

イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ルカ24:36)

弟子たちはとても混乱していました。三日前に確かに主は十字架で息絶えました。それはまぎれもない事実。それなのに、主はマリアたちに顕れ、シモンにもクレオパにも顕れたと言うのです。その知らせがもたらされた時、彼らはエルサレムの家の一室に隠れるように集まっていました。主の死の衝撃、裏切りの挫折、この先何が待っているかわからない恐怖に怯えながら、弟子たちは入り口を閉ざして身を寄せ合っていたのでした。そこに届いたイエス出現の知らせは、彼らを更なる疑心と混乱(ぎしん)へと誘(いざな)うのです。
しかし突如として、この閉ざされた混乱の輪の真ん中に、復活のイエスは立たれます。恐怖と疑いのただ中にイエスは立って「シャローム。あなたがたに平和があるように」と声を響かせたのです。
もはや弟子たちは道を失っていました。信じる道、従う道、歩む道を見失っていたのです。しばらく慰め合った後、それぞれの以前(むかし)に戻ろうと思い始めていたでしょう。もう、一緒に歩んで行く意味は見当たらないのですから。共に生きてきた一つの集団(まじわり)が、現実の世の力に踏み潰され、まるで太刀打(たちうち)できず、信じる力と集まる意味を喪失している、そんな死にかけた集団の中心に、新しい命の主が立たれます。そして「シャローム(平和)」と呼びかける。その声こそが、その声のみが、その集団を生き返らせます。道がつながり、交わりがつながり、信(のぞみ)がよみがえるのです。イエスのよみがえりは、共同体を再創造(よみがえらせ)していったのです。
主イエスは、弟子たちにご自分の手と足をお見せになりました。傷跡の生々しいその手足を。その傷こそ彼らの弱さの事実、愚かさの証(あかし)でした。しみも傷もない美しいイエスの手ではありません。醜(みにく)く肉が裂け、血がこびりついた傷(いた)みの穴を見たのです。人間の痛(いた)みを味わわれたイエスが、その傷みを身体に遺したままよみがえらた事実と、その傷(しるし)の意味が心に焼き付いたのです。それゆえ、弟子たち=この新しい集団(まじわり)は、人間の痛みに関わっていく共同体(まじわり)になりました。それにしかなれなかったのです。イエスが味わい、イエスが背負った痛み。肉体を持ち、弱さを引きずり、死の限界を背負いながらも、それでも神を見上げ、この世の不義の先に待つ、神の国・神のシャロームを信じ、愛と希望の交わりを創っていく。その道のりの根拠(りゆう)を、イエスの手と足の傷に見たのです。教会という共同体(まじわり)の基礎が、ここにあります。(吉髙叶)

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