2022年11月20日礼拝「悲しみの喜び、喜びの悲しみ」

ネヘミヤ記12 章27-31,43-47 節

その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子どもも共に喜び祝った。(ネヘミヤ12:43)

ペルシャ王の献酌官(最高位の給仕役)として不自由なく生きていたネヘミヤ。しかし、届けられた「エルサレムの現況」の報告に、彼は驚愕し悲嘆に沈み込みます。突然何かのスイッチが入ってしまったようにネヘミヤはエルサレム城壁の再建役に志願し、王の許しを得て故郷(自身のルーツの地)エルサレムに帰還します。

彼はうわさ以上に荒廃したエルサレムを深く検分して回ります。医者が触診するように、脈を確認するように、丹念に「悲しみの現実」を診ていきます。先祖たちが喜び勇んで帰還してきたはずのエルサレム。あの帰還の時から70 年を経て、なお瓦礫のままに捨て置かれている町。そして「飼う者のない羊」のように疲れ、意欲を喪失している民。移民してきた土地で、結局は生活再建の道に失敗をし、気がつけば近隣する他国人たちの農奴として貧困生活を強いられている。ネヘミヤはこの民の悲しみを理解しながら「城壁再建」プロジエクトを準備していきます。その甲斐あって、民は失意の中から立ち上がり、気持ちを合わせて城壁再建に取り組むのです。城壁再生の過程にあって、ネヘミヤは民衆たちの間に通常的になっていたいくつかの不正や悪習をただしてもいきます。
城壁が遂に完成したある日、人々は一同に集まり、モーセの律法の朗読を聞いたと言います(8 章)。もはやモーセ時代の言葉がわからず、13 のグループにわかれて翻訳と解説を受けた民。ようやく、自分の耳で「戒め」を聞き、自分の心に「神の慈愛」を落とし込んだ民でした。とたんに民の中に嘆きの声が広がっていきました。それは、自分たちの荒廃の現実の背後にあるもの、捕囚の歴史も含め先祖たちの歩みの中から問われる「罪責」、そして苦悩や貧困の所以、自分たちの「魂の状態」に対する激しい省みが引き起こされ、それによって集団的に沸き起こった悔恨の出来事でした。民はともに罪の告白の時を過ごし(9 章)、新たに神と民との誓約を交わした(10 章)のでした。そして城壁完成の祝いの式典に臨みます(12 章)。エルサレム神殿で、祭司がレビが神の言葉を伝え、詠唱隊が聖歌隊が賛美の歌を響かせる。詠唱に答えて「アーメン」と民が声を合わせる。
150 年もの時を隔ててこうして再現した礼拝は、「喜び」という語を何度重ねても足らぬほどのものであったでしょう(12:43)。ただし、その喜びの背後にあった長年の労苦と悲しみ、この喜びに行き着く過程の中で民が自覚した「罪責」のこと。癒やしと喜び、悔い改めと喜び。この関係性をわたしたち読者は忘れてはならないと思います。(吉髙叶)

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