2023年11月12日礼拝「子どもたちを愛おしみ、悼む」

イザヤ書49 章1-6 節

主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。(イザ49:1b)

第二イザヤを読んでいて、ふと思った。預言者・第二イザヤにも子どもの時代があったのだよな、と。バビロン捕囚からおよそ50 年という年月が経ったころ、捕囚のユダの民に向かって「まもなく解放の時が訪れようとしている。主なる神がわたしたちに新しい指導者を与えてくださるのだ。エルサレムに向けて顔を上げ、未来に向けて心を挙げよう。」と呼びかけた第二イザヤ。考えてみれば、彼はほぼまちがいなく抑留地バビロンで生まれ、捕囚民の子どもとして育ってきたと思う。100 年以上も前に没した預言者イザヤの思想と精神を引き継いだ弟子集団が、脈々と「預言の精神」を継承してきたようであるが、第二イザヤは、おそらく幼い頃からそれらの人々の中で育ち、そして時を捉えて預言活動を開始することになる。彼は何を学び、自分自身でどう考え、なぜ立ち上がることにしたのだろうか。ひとりの人間の人生に「境遇」というものがもたらす「作用」について思い巡らせるのも、ひとつの聖書の読み方である。
今回のガザの攻撃では、すでに4000 人以上のパレスチナ人の子どもたちが殺されている。ウクライナやミャンマーでも同様だが、紛争・戦争・クーデターの「事由」とはほとんど無縁の子どもたちが死に、あるいは身体と心に傷を負い、難民となってあまりに不遇で過酷な人生を味わいながら育っていくこととなる。それらの子どもたちは、その過酷な歩みの当事者となり、悲しみと痛みと貧困の中で感情を養われ、やがて思想を形成し行動を選択していく。わたしたちの世界の未来にとって、これは何を意味するのだろうか。自分の身のまわりの子どもたちの未来や人生と、これは無関係なのだろうか。
11 月20 日は「世界こどもの日」。子どもたちのいのちの保護、教育・福祉の向上を期して1954 年に国連で制定された。1959 年には「子どもの権利宣言」が、そして1989 年には「子どもの権利条約」が採択されている。子どもの権利、子どもの人権をほんとうに大切にするならば、最もしてはならないことは「暴力の中に子どもを放置すること」ではないだろうか。そして戦争こそが暴力的な境遇の極地、悲しみと怒りと憎しみの苗床なのだから、大人たちは戦争・紛争を自制し、それを止めさせる責任を負っている。戦争を忌み、戦争を悲しむ態度を、身近な子どもたちに真剣に見せていくことは大人の努め。大人たちが暴力に慣れてはならないのだ。遠い国の子どもたちも身近な子どもたちも、どの子どもたちも決して暴力の中に放置されてはならないのだから。吉髙叶

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