2023年1月15日礼拝「罪の赦し、もっとしなやかに」

ルカによる福音書5 章17-26 節

イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ5:20)

身体に麻痺症状を背負い、寝たきりの人生を強いられてきた人がいました。イエスの噂を耳にし、自分もイエスのもとに行き、願わくばこの苦しみから解き放たれたいと切に願ったのだと思います。その想いに心を動かされた友人たちが、床ごと彼をイエスのもとに連れてきました。けれど、既にイエスがいた家の入り口は人だかりで中に入ることができませんでした。それでも彼らは諦めず、天井を剥がして、床ごと吊り降ろすという奇想天外な方法でイエスに近づいていきました。イエスは、この人々に「信仰(原文ではピスティス=信実)」を見ます。そして「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言するのです。
そもそも「罪」とは、神と人の関係、人と人との関係の「破れ」のことです。イエスはもとより、人が罪赦され、神との関係に結び合わされ、神を賛美する者と変えられることを何より望んでいましたから、この人々のように、苦悩を共に味わい、痛みを我が事として背負い、共に神に向かっていこうとする交わりの様子に、まさしく罪からの解放の事実を見て取り、心から祝福したのです。「あなたたちの姿は信実そのものだ」と。
ところが、その場にそうは考えない人々がいました。ファリサイ派に属している人々と律法の専門家たちでした。イエスの評判を耳にし、嫉妬心を抱き、自分たちの目でイエスを見定め、暴いてやろうとの魂胆を持って集まっていた人々でした。こうした宗教家たちは、神を冒涜する行為や言動にはことさらに厳しく、容赦なく断罪することに使命感を持っていましたから、このイエスの言葉に対しすかさず攻撃を開始します。しかし、その心中の意地悪い思いを悟ったイエスは、たちまち反問するのです。「『罪の赦し』を宣言することが、なぜそれほどまでに、あなたたちの怒りにつながるのか」と。
ファリサイ派の人々は、神でもないイエスが罪の赦しを口にすることを「神への冒涜」だと感じました。しかし、それは裏返せば、自分たちこそ律法を「正しく」理解し、律法解釈を管理し、神に代わって人々を監督することを任されていると思い込んでいる宗教的特権意識のあらわれです。「罪の赦しは神の領域」と枠に嵌めこんでおいて、その「神の枠」の番人は自分たちだと言って人々を支配しようとする。これがイエスを執拗につけまわし、断罪を続けた「宗教者たち」の正体でした。こうした歪んだ宗教性こそが、人を罪人に仕立てた上で救いを操ろうとする「宗教支配」の本質なのです。(吉髙叶)

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