イザヤ書5 章1-6 節
わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。(イザヤ5:4)
エルサレムでは秋の収穫を祝う祭りを「仮庵の祭り」と称します。エジプトからの脱出後、荒野を40 年も彷徨って苦労した時代と先祖たちとを想起し、草木で仮小屋を造り、収穫物を天井から下げ、祭りの期間中そこで過ごします。イスラエルの民の選びと神殿の存在を主ヤハウェに感謝し、王国の祝福を神に願って過ごすのです。イザヤ5 章の「ぶどう畑の歌」は、このように収穫祭を祝う人々のただ中で発せられた「歌」でした。
「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。」(イザ5:1)
甘く麗しい響きでこの「歌」は語られ始めたのでした。ところが、とたんに歌の調子は変貌します。打って変わってエルサレムの人々への弾劾の内容となります。畑の持ち主自身が苦労し、手塩にかけて整えたぶどう畑。とびきり上等な種を植え、念入りに畑を防護し、芳醇なぶどうの実りを期待していた。しかし、獲れたぶどうは酸っぱい(異臭を放つ・腐っている)ぶどうだった、と言うのです。収穫祭のただ中に、お祭りムードを吹き飛ばし人々を凍り付かせるような「歌」が響いたのです。
ぶどう畑の主人は、ぶどう畑に問いかけます。「わたしが、ぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか。」と。「なぜなのか、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか。」と。神は悲しみで心をいっぱいにして、問いかけたのです。
わたしたちは、不正義や不公正に喘ぐ人間世界の現実に直面しては、「なぜ、神は」と問うてしまうのですが、実は神こそがわたしたち人間に「なぜ」と問うておられるのです。わたしたちの生きるこの世界もまた「神のぶどう畑」です。主人であり農夫である神のぶどう畑への愛と期待は、決して絶えることはありません。それゆえ、神の「なぜ」は響き続けます。ぶどう畑はいまも問われ続けているのだと思います。
作家の落合恵子さんがFacebook で次のように叫んでいました。「こんなにもひどい時代と社会をむかえるために、私たちは今日まで生きて来たのでしょうか。こんな社会をむかえるために、私たちの母や父は、働いて来たのでしょうか。こんなにも残酷な社会を生きるために、私たちの子どもや孫は、生まれて来たのでしょうか。」
わたしたちの、また母父たちの人生、そして子どもたちの未来。そのあらゆる人生の背後には「生命の場」を造られ期待している神の想いがあります。神の想い映した「なぜ」の問い(預言)を受け、同時にわたしたちも発していたいと思うのです。吉髙叶