2023年5月21日礼拝「和解の道へ招かれる罪人」

ローマの信徒への手紙7 章14-25 節

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。(ロマ7:19,24)

『ローマの信徒への手紙』は、これから訪問し、これから実際に出会いたいと願っているローマ在住のクリスチャンたち宛てに、パウロがあらかじめ自分の信仰理解をまとめて届けた文書です。特に、「律法理解」を刷新するために、これでもかといわんばかりに真剣に論じています。けれども、論理的な説明などではどうにも済まないのです。
“律法は決して無益なものではないし、むしろ善いものだ。しかし、その善いものによってどうにも人が解放されないのは何故なのか。”その問いの前で、パウロは自分自身の内面の矛盾と苦悩を、手紙の読み手に率直に開陳します。自己を切開し、自分を開陳していくのです。“私の中で、どうしても「適切なことをしたいと望んでいる自分」と「不当なことをしてしまう自分」が同居してしまっている。自分の中で分裂が起こっている。その分裂をごまかし、封じ込めようとして生きてきた時に、自分は凶暴な姿になってしまっていた。今なお、その危うさを抱え込んでいる。自分はなんという惨めな存在だろうか。”パウロは、そのような破綻した偽らざる自分の姿を、相手に告白していくのです。
これから自分を受け入れてもらいたい相手の前で、自己切開し自分を開陳をしていくって、そう簡単なことではありません。けれども、彼にそれができたのは、開陳した通りのどうすることもできない分裂を抱えた自分自身を、そのままに受容し、励まし、用いようとしてくださるイエス・キリストに出会ったからです。キリストとの出会い、キリストの信実に照らされて、初めて気づいた自己の内面の醜さ。しかし、にも拘わらず、迫害されている側から自分に伸べられている招きの手。この「赦しと招き」の導きの中に、自分の歩みを踏み出し始めた時に、自分の中で脈を打ち始めた「和解」の鼓動をパウロは体感し、経験したのでした。ただ、このキリストの光のもとで、パウロは「罪をどうにもできない自分」の実態を証言することができています。そして、パウロがローマの信徒たちと分かち合いたいことは、「人間に心底からの解放をもたらしてくれるのは、キリストの信・キリストの受容なのだ」という福音をだったのです。
「和解」や「赦し」を安易に振り回したり、場面を間違えて強調することは、とても危険なことではあります。けれども、「赦しへの招き」「受容と再出発」への招きを信じて、自分自身の事実を切開し、認識し、悔い改めて歩もうとするならば、私たちは解放されたり、自由にされたり、まさしく赦されたり、していくのだと思います。(吉髙叶)

関連記事

PAGE TOP