2023年6月11日礼拝「みんなで神に向かっていきたい」

ローマの信徒への手紙11:25-36

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン(ロマ10:13)

「神の慈しみと憐れみはすべての人々に等しく注がれていて、神はすべての人が救われることを望んでおられる」。わたしたちは『ローマの信徒への手紙』の中心メッセージとして「その事」を聞いています。今を生きるわたしたちの心も、そのように整えられていこうとしてきました。そのようなわたしたちに、とても悲しい現実が突きつけられてしまいました。6 月9 日、「入管法」の改悪案が国会で可決されてしまったのです。
キリスト教はもともとユダヤ人の異端児「イエス」という人に起源を持っています。イエスは、当時のユダヤの強烈な民族主義と宗教的な浄化主義に抵抗し、宗教的に不道徳とされたマイノリティたちに寄り添い、さらには彼らを排斥する当時の制度とも闘い、それゆえに十字架刑で殺された人物です。しかし、このイエスの視線や生き方の光を心に灯した人々が、偏狭な民族主義を超え、世界に移り住みながら、もはや人間の民族や階級などの属性を超えて繋がっていこうという運動を起こした・・・それがもともとのキリスト教の始まりなのです。ですから、「全ての人間は、そのままに等しく尊厳に満ちている。そこに差別があってはならない。皆がその人として生かされなければならない。」この原理は、キリスト教の核心であり教会の生命線です。それゆえに、わたしたちは改悪されてしまった入管法を認めることができません。そもそも日本の入管法は「外国人を日本社会に定着させない狙い」でつくられており、その根には「外国人は犯罪を起こしやすい」という差別と偏見があります。他方では、技能実習生制度を巧みに設計し、安価な労働力として外国人労働者を大量に動員しておきながら、定住させずに数年で帰国させ、次々と回転させて使役していくという「体の良い奴隷制度」が目論まれ、それと対を為しているのがこれまでの入管法です。そして今回改悪された入管法は、難民申請中の外国人を入管当局が恣意的に強制送還させることができるようにしたのです。これは、「難民申請中の人物については、いかなる理由があっても強制送還してはならない」という国際人権規約のルフールマン原則に明らかに違反しています。
なぜわたしたちは、「日本人かそうでないか」という二分法を「交わりやつきあい」の中に持ち込まれなければならないのでしょうか。なぜ「日本社会に役に立つ者とそうでない者」という二分法によって判断されなければならないのでしょうか。イエスを見つめるたびに、また『ロマ書』を読むたびに、悲しくてたまらなくなります。(吉髙叶)

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