2024年3月17日礼拝「主の前に立ちて~イエスの前で問い続ける真理~」

ヨハネによる福音書18 章28-38a 節

ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネ18:38)

市川八幡教会では唱えていませんが、キリスト教の伝統の中で最も古い信仰告白で、2世紀中頃にその原型が形成されたと言われている『使徒信条(しとしんじょう)』には次のようなくだりがあります。~・・・主は聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアより産まれ、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ・・・~そう記されます。ポンテオピラトとはイエスの十字架刑に関与したローマ総督のことですが、『使徒信条』があえてこの人物を明記するのは、ローマによる征服世界のもとにイエスが生き、処刑されたという「イエスの死の政治的現実性」を記憶するためです。同様に『ヨハネによる福音書』を読んでいた共同体もまた2 世紀初頭の人々であり、「ローマ帝国の暴力的支配(闇の世)の中をいかに生きるか」を強く意
識していました。『ヨハネ福音書』の描くイエス裁判の記事は、他の福音書に比して総督ピラトの心情(その狼狽え(うろたえ)ぶり)を詳しく描いていますが、まさにローマ帝国の繁栄や威信(いしん)なるものの「脆弱(ぜいじゃく)な本質」を言い抜こうとしているのです。
イエスは圧倒的権力によって審問されているのですが、どうも裁いているピラト自身が狼狽(ろうばい)を隠せずにいます。「大過(たいか)なき統治」を使命としていた総督としては、ユダヤでの騒擾(そうじょう)を過度に恐れていたこともありますが、「ローマを恐れないイエスへの恐れ」を感じているようでもあります。「おまえを生かすも殺すもわたしの一存なのだぞ」と豪語するピラトですが、「わたしは真理について証するために世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と語るイエスの前で絶句し悶え(もだえ)ます、“真理とは何か・・・”。真理への接続や探求を「無用の長物」として生きてきた暴力社会・ローマの“絶句”なのです。
先日、沖縄の辺野古で一つのエピソードを聞きました。辺野古のキャンプシュワブのゲート前には連日多くの市民が集まり、土砂搬入のトラックに抗議して搬入路に座り込みます。その都度、座り込んだ人々は機動隊から引っこ抜かれ排除されます。そんな闘いの日々です。ある日、基地の米兵たちが数人ゲート前にやってきて、自動小銃の安全装置をカチャカチャといじり、ニヤニヤしながら人々に向かって吐き捨てるように言ったのだそうです、「I can kill you !!」と。すると、座り込んでいた一人がそれを聞いて立ち上がり、米兵に向かってこう言ったのです。「I can not kill you. Because I am human.」
強大な暴力が、ささやかなしかし真実の言葉の前に力を失うとはこういうことです。「真理とは何か」という問いは、いまもこのようなシチュエーションの中で響くのです。吉髙叶

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