ローマの信徒への手紙15:14-21,13:1-4
人はみな、すぐれた権威には従うべきです。じつに、神の下にあるのでもとなければ、それは権威ではありません。(ロマ13:1 本田哲郎神父訳)
わたしは日本キリスト教協議会(プロテスタント超教派のネットワーク)に関わっていますので、他派の諸教会が共通に抱えている重大課題を承知しています。それは「牧師・司祭」の圧倒的な不足(教会数に対する人数)という問題です。いずれの教派にあっても「献身志願者の増加」が呼びかけられていますが、願うようにはなっていません。日本聖公会、日本キリスト教団、日本福音ルーテル教会等(日本バプテスト同盟でさえも)の諸教派では、牧師・司祭の多くが複数教会を兼任してこの現実に対応しています。説教や礼典(聖餐式)は牧師・司祭といった「聖職者(受按者:じゅあんしゃ)」しか携われないという基本理解(絶対理解)を持つそれらの教派では、牧師・司祭たちが教会をいくつも兼務して巡回しなければ、個別教会の「存立要件」を満たせなくなってしまうからです。
日本バプテスト連盟にあっても「伝道者不足」の状況はまったく同様です。ただし、上述した他教派と異なる点は、「牧師のみが説教や礼典を司(つかさど)るのではない」という理解を持っている柔軟さです。昨年の日本バプテスト連盟の総会では「伝道者養成の理念」が改められ、牧師だけで無く信徒による伝道・牧会の促進をいっそう強調しています。もともと「信徒による教会形成」をスローガンとするバプテストですから、それは特別に新しいことではありませんで、信徒たちによって宣教(説教)や礼典が担われていくことは素敵なことですし、これからの時代に対応していくふさわしい姿だと思います。
ただ、それは「担い手」に関するシフトの視点なのであって、「伝道者養成の理念」にとって重要なことは、(それが牧師であろうが信徒であろうが)伝道者たちに求められているのは、福音宣教の「視座」をどこに置き、「視点」をどう定めるのかという点です。『ローマの信徒への手紙』を見つめ、パウロという人物に注目しながら考えさせられるのは、歴史と時代・伝統や風潮の中で、「人間の解放」にまつわる神の想いを見定め、イエスの言葉と業の本質を追い求める姿勢の大切さです。パウロが、「ユダヤ人・割礼・律法」というそれまでの「救いの三要素」を根底から問い直し、民族や身分といった人間の属性の縛りを越えようとしたこと。共に生きる人間の「つながりの舞台」を民族や国家の枠にとらわれずグローバルに捉えたこと。そしてその時代の支配権力について相対化したこと。これらは、キリスト教伝道者が「キリスト教の本質」として継承しなければならない基本的な姿勢であり、据(す)えるべき視座、持つべき視点です。(吉髙叶)