2021年5月9日礼拝「悼むわざ」

ヘブライ人への手紙11章13-16節

私が大好きな文学作品の一つに、天童荒太さんの『悼む人』があります。若い主人公、坂築静人(さかつきしずと)は、シュラフとラジオをリュックに詰めて全国を歩いている放浪者です。目的は、というと見知らぬ人を悼み続けることです。行く先々の町で新聞を拾っては、悼むべき人を探します。事件の犠牲者、交通事故の被害者、通り魔に襲われて死んだ犠牲者、そうした人々の事件現場、事故現場に行って、ただ黙って悼みます。片膝をつき、右手を空にかかげ空中の何かを捉えようとして胸に運び、左手を地面におろし、大地の息吹をすくうようにして胸に運び右手の上に重ね、目を閉じて、死んでいった人の名を呼んで悼むのです。
静人は悼む前に、その死んでいった人のことを知ろうと努力します。そして次の三つのことを、近親者たちに尋ねるのです。「この人は誰に愛されていましたか。この人は誰を愛していましたか。そして何かのことで感謝されましたか」。名前とそれらのことをノートに書き込んで、悼み続けるのです。
そんな彼をいぶかしげに見る人、あざわらう人、偽善者だと罵る人、心に留めていく人など、反応はさまざまですが、それがどうであろうと、静人は、ただただそれを続けます。
そんな彼の姿を、最初、怒りをもっていた遺族が、最後には彼に涙を流して懇願する場面もあります。「覚えてください。どうか覚えていてください。」
心に残ったのは、ある人が彼に批判的に問いかける場面です。「亡くなった者を悼みたいなら、もっと大事なことがあるんじゃないか。その人が殺された理由とか、殺され方とか。理不尽な死への怒りや悔しさを胸に刻むことのほうが、供養になるんじゃないのか」 そんな問いかけに対して、静人は答えます。
「殺人事件や、よっぱらい運転などの悪質な交通犯罪には、感情的にもなります。でも怒りや悔しさをつのらせていくと、亡くなった人ではなく、事件や事故という出来事の方を、また犯人のほうを、より覚えてしまうことに気がついたんです。たとえば、亡くなった子どもの名前より、その子を手にかけた犯人の名前のほうが先に頭に浮かぶ、というようなことです。亡くなった人の人生の本質は、死に方ではなくて、誰を愛し、誰に愛され、何をして人に感謝されたかにあるのではないかと、亡くなった人々を訪ね歩くうちに、気づかされたんです。」あまたの事件報道にさらされ、鈍感になっていく現代の私たちが立ち止まって聞かなければならない点ではないでしょうか。

この作品の内容について、これ以上に立ち入ることは時間の関係でできませんが、わたしは、「悼む」というわざの中にある「魂の交わり」「いのちへの優しさ」「慰めの力」「記憶することの重要さ」、そうしたものを問いかけられ、悼むわざ、悼もうとするわざの中には、人間が人間であれるかどうか、「人間性」に関わる問題があるのだと再認識させられたのです。
この方は、「誰から愛されていましたか。誰を愛していましたか。そしてどんなことについて喜ばれた方ですか。」召天者記念礼拝として過ごす今朝は、そのような、故人の存在性や人生の大切な本質をもう一度思い出したり、心に留めたりして過ごしたいと願っています。
そして私たちは、今日記念しているお一人一人には、地上で愛した人、愛された人が身近に確かにいたこと、彼ら・彼女らの営みを喜び感謝した人々がいたこと。それぞれの方が、その愛と感謝、労苦を含む人生の交わりの中にあった者たちであることに、心からの感謝を捧げたいと思います。故人たちは、ご遺族にとってかけがえのない方であったと同時に、ここにいるご遺族や教会メンバーの皆さまも、故人にとって大切な人であられたのです。お互いが作用して、お互いの生があったことに改めて豊かな記憶を刻みましょう。

加えて、私たちは、静人の問い「誰に愛されていましたか」、という問いに導かれながら、故人を愛してくださった主イエス・キリストを、そして創り主なる神さまを思いましょう。「神はその一人子を与え賜うほどにわたしを愛してくださった」これは聖書に記された大切なメッセージですが、そのことを、つまり「神がわたしを愛してくださった」ということを受け入れないでも、もちろん人は生きていけます。事実、そんなことをまったく気にかけることもなく、たくさんの人々は生きています。けれども、わたしたちが今日、ここで記念しているこれらの方々は、神に愛されている自分であることを、キリストの愛が自分に注がれていることを、聞かされ、知らされ、受けとめ、感謝して生きた方々であったことを憶えたいのです。
天童荒太が主人公に語らせている人生の本質が、「誰を愛し、誰に愛され、何をして感謝されたか」ということに大切に集約されていくのだとしたら、これらの方々は主なる神に愛されることを知り、それゆえ神を愛し、その愛に促されたり導かれながら身近なものたちを愛し、それらの人々を大切にしようとして歩んだのだという、「豊かな人生」の本質に招かれていた人生であったことを喜びたいのです。

今朝、私たちは、もう一つの問いを加えさせていただきたいのです。「誰を愛しましたか。誰に愛されましたか。どのようなことを感謝されましたか。」に加えて、「そして、いま、どこにいますか?」という問いであります。
もう一度、聖書に目を向けましょう。(ヘブライ書11:13-16)
今日、記念しているこれらの先達たちは、いま、まことの故郷にいらっしゃいます。神を信じることによって、過去に自分が出てきたところやご実家が「それ」ではなく、神が用意してくださる永遠の居場所こそが「まことのふるさと」だと仰ぎ見た、その「まことの故郷」にいらっしゃるのです。
生まれ出た時から、私たち人間にはひとつの旅がはじまっています。ことばを知らず、まだ自分で立てないときから、すでに一人一人の人間にとってのいのちの旅がはじまるのです。神は、その赤ん坊の心の内に言葉を授け、力を与え、歩みへと送り出します。地上の人生を歩み始めます。けれども、もちろんまだ微塵も見えないのですけれども、「まことのふるさと」への旅が始まったのです。人生の真実、いのちを温める真実の愛を望みながら生きていく人、としての旅がはじまったのです。それはやがて包まれる永遠の愛につながっているのです。
人生を生きることは、平たんな道、簡単な旅ではありません。たくさんの不条理や、苦しみ、悩みにぶつかります。しかしその一つ一つを乗り越え、苦しみを経験しながら、人間は生き続けていくことへの深い喜びを与えられていきます。いつわりの愛に出会い、まやかしの喜びも知ります。だからこそ更に深い喜びや変わらないものを求めて、旅を続けます。耐え忍び、深い喜びを自分のものにしながら、まことの故郷にたどりつく旅を続けます。
やがて誰にも自分の死が訪れます。死の淵に立つとき、わたしたちは別れを恐れ、弱さをなげき、罪に苦しみます。けれども、そこに共に座り込んでくださるキリストを再び見いだします。自分自身の全てをご存じで、その旅を片時もはなれずに随伴し支えてくれたキリストがそこに自分といっしょに座り込んでいてくださることを。そして、すべては赦され、受け入れられ、安らぎを備えられるのです。そのとき、ほんとうにほんとうに変わらぬ愛につつまれ、なおも旅が続くことを知ります。命与えられ、生まれいづるときから、たどってきたまことのふるさとへの旅が、続くことを知ります。永久(とこしえ)の愛の場所、そのふるさとに向かっていのちの旅は続きます。死の淵よりよみがえり、わたしたちを連れ登ってくださるキリストに伴われて、まことのふるさとの門をくぐります。
これらの人たちのいのちの旅は、キリストと共にありました。神の愛に包まれていました。そして、いま、キリストと共に、これらの人々は故郷(ふるさと)にいて、神の愛につつまれています。
「誰を愛しましたか。誰に愛されましたか。どんなことで感謝されましたか。そして、いま、どこにいますか。」
いま、これらの信仰の先達たちを思い起こし、記念し、神を賛美いたしましょう。

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