2023年3月19日礼拝「捨てられた石が親石となる日」

ルカによる福音書20 章9-19 節

イエスは彼らを見つめて言われた。「こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」(ルカ20:17)

ルカ福音書の豊富な譬え話群のなかにあって、この「ぶどう園と農夫」の譬えは最後の譬え話です。それにしても、物騒で後味の悪い譬え話です。なにしろ、ぶどう園で展開する略奪、殺害、報復の応酬ですから。しかし、この時のイエスにとっては、この成り行きこそが実にリアルだったのです。この譬え話が置かれている文脈に注目するならば、跡取り息子を殺せば、主人のぶどう園が自分たちのものになると謀(はか)った農夫たちが、エルサレム神殿を拠点にして民衆支配を企(たくら)むユダヤ教指導者たちのことであることは一目瞭然です。そしてイエスが、農夫たちによって殺されていく跡取り息子に、ご自身の身に間近に迫った死の運命を重ねていることも明らかです。
この譬え話を、それ以上聞いていられなくなった弟子たちは、「そんなことがあってはなりません」と否定します。けれどもイエスは「あってはならないそのようなことが、しかし、『これから』の時代のためには必要なことなのだ」と、詩編の言葉を引用しながら弟子たちに告げるのです。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅(すみ)の親石となった」(詩編118:22からの引用)
自分自身はまもなく人々に捨てられる。しかし、神はその命(その死)を新しい建物(神の国、神の民)の親石となさるのだ。「農夫たち」(すなわち宗教指導者たち)が、思い高ぶって自らの手中に収めようとした「神の国」、また、これまでも過去の預言者たちを排撃して握りしめようとしてきた「神の支配」は、決して彼らのものとはならずに、軽々と「ほかの人たち」(すなわち罪人呼ばわりされてきた人々や異邦人たち)に預けられ委ねられていく。その時、その新しい世界の「親石」となるのは、まぎれもなく「捨てられた石」、すなわちこのわたしなのだ。そこに新しい神の民が形成されていくのだ、と。この時、弟子たちを見つめたイエスは、自分に接近している受難の死だけではなく、その先に拓(ひら)かれていく未来、新しい神の民の時代を確かに見つめていたのです。
ところで、「イエスの十字架」を「捨てられた死」として、私たちは捉えているでしょうか。人間の生来の罪の解決のために、天から贈られた「贖(あがな)いの死」と教理的にのみ理解しているばかりでは、「捨てられた死」すなわちイエスが「捨てられるような生き方をした結果の死」という視点が消えてしまいます。すると教会は、「イエスが闘ったもの」をも見失ってしまい、やがては「農夫たち」の一員になってしまうのかもしれません。

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