2022年6月19日礼拝「新しい衣、新しい人」

コロサイの信徒への手紙3 章9b-10 節

古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、創り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々、新たにされて、真の知識に達するのです。(コロサイ3:9b-10)

いま、今日この時も、名前が読み上げられています。不条理な戦争によって、理不尽に奪われていった命の名前が、ゆっくり、丁寧に読み上げられています。
沖縄戦で亡くなった24 万1,686 人の名前を読み上げる「沖縄『平和の礎(いしじ)』名前を読み上げる集い」が6 月12 日に沖縄・読谷(よみたん)村から始まりました。朝5 時から名前の読み上げが始まり翌日午前3 時まで続けられます。沖縄県内の各地にバトンタッチされながら6月23 日の「沖縄慰霊の日」まで約1,500 人の人々によって名前は呼ばれていきます。読谷村がこのリレーの出発点とされたのは、1945 年4 月1 日、米軍が沖縄に上陸したのがこの村であったからです。米軍は、「鉄のカーテン」と言われる海上からの艦砲射撃で地上のあらゆるものを破壊した後、読谷村から上陸し、火炎放射器によって、逃げ惑う人々、自然洞窟やキビ畑に隠れていた人々を焼き尽くしていきました。ガマと呼ばれる自然壕の中に身を寄せ隠れている人々の上に、ガソリンにアルミニウム粉を混ぜて熱量を最高度にした火炎放射器の炎が襲いかかりました。火だるまになってのたうち回り焦げ死んでいく人々、壕(ガマ)の中は地獄そのものだったといいます。壕によっては、日本兵の命令による集団自決でたくさんの命が奪われました。夫婦・家族が互いを鎌で斬り殺し合ったり、手渡された手榴弾で吹き飛んで死んでいったと言います。
「戦争による死」はそればかりではありません。スパイ嫌疑(けんぎ)をかけられての死、戦闘に非協力的だと斬り捨てられた死、壕の中で泣く乳幼児の殺害。死の多くは日本軍(皇軍)がもたらしたものです。非戦闘地域でもたくさんの人が死にました。病死、飢餓死、ソテツなどによる中毒死。戦闘終了後の収容所での衰弱死、米兵たちから強姦を受け命を断っていった女性たちの死、マラリアなどの病死、トラウマを抱え何年も後に死を選んだ人たちの死。牛島中将が自決し組織的な戦争が終了したとされる6 月22 日以後も、更には8 月15 日の終戦を過ぎても、「沖縄戦」による死者は加えられ続けていきました。
「一人一人の名前を読んで記憶する」。「慰霊」あるいは「追悼」の本質がこの業の中にあるように思います。3 ヶ月間の戦闘で24 万1686 人。その一人一人に繋がる方々の77年に亘る悲しみ。「繰り返させないために記憶しよう」「われ忘れじ」と繋げられていく「名前を読み上げる」いとなみ。一見「非力」に思える業ですが、命を記憶しようとするこうした意思や努力こそが、未来といのちのための最も誠実な業だと言えます。【吉髙叶】

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