2022年6月12日礼拝「喜びの苦しみ、苦しみの喜び」

コロサイの信徒への手紙1 章24 節

わたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとしています。(コロ1:24)

ユダヤ教の保守派・武闘派でならしていたパウロが、復活のイエスと出会って回心したのが紀元33 年頃。そして伝道を開始したのが47 年頃。その後ローマによって逮捕監禁され、『コロサイの信徒への手紙』を書いている時点が紀元60 年頃ですから、パウロの「宣教」はわずか12~3 年の間にどんどん深化し濃密になっていったと言えます。それは、常にパウロに取り憑いていた攻撃・身の危険と背中合わせの緊張感の中から産み出されていったのでした。彼は、繰り返し苦しみに遭遇するその時に、「喜び」の概念を対置させるしかなかったのです。たとえばコイン。コインには表と裏があります。表は裏の表であり、裏は表の裏なのです。「この裏」があっての「この表」、「この表」があっての「この裏」なのです。パウロにとって「苦しみと喜び」「妨害と希望」「恐れと平安」とはコインの表裏のように、どちらか一方を剥がして考えることのできないものでした。
12~3 年の苦しみと危険が濃縮されて迫ってくる命の時間の中で、パウロの信仰と希望と愛のメッセージもまた濃密に絞り出され、ひとかたならぬ響きを孕(はら)んでいったのです。パウロが書き残し、新約聖書に収められているいくつもの書簡の背後には、彼の苦しみと危険がへばりついています。その「手紙」の文面は、愛の勧め、交わりと受け入れ合いの勧め、新しい生き方の勧めに満ちていますが、そう書いている彼の背後に押し寄せ足下に纏(まと)わりついていたものは、憎しみをぶつけられる状態や罵り(ののしり)と排除による孤独、そして「古い生き方」からの攻撃でありました。その事実・現実との相関関係こそが、実はパウロの手紙に書かれていないもう一つの「事実(ドキュメント)」であり、パウロの諸々の書簡を読むときには、その「反面の事実」を想像することが実に大切になってきます。
なぜなら、私たちがパウロ書簡から、様々な前向き(ポジティブ)な生き方や「喜び」を勧められていくとしても、私たちが生きているこの時代もまた、欲望と暴力が力を持ち、人の自由を封殺したり、古い力が新しい関係を妨害しようとする力に、私たちはしばしば苦しめられているからです。それを忘れたなら、「喜び」は苦しみに蓋をしてしまうものになってしまうからです。「聖書を読む」とは、自分の生きる時代の状態をも読みながら、その上で、人間の苦しみや悲しみを学びながら喜びを学び、不感症になっていく人間の心の鈍り(にぶり)を見つめながら愛を学んで行こうとする作業のことだと言えます。私たちが「喜び」を口にするときには、その「喜びの質」が尋ねられているのです。【吉髙叶】

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