創世記2 章4 節後半~ 9 節、15 節~ 17 節
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創2:7)
創世記1 章~ 2 章4 節前半の「祭司資料」は、虚無(カオス)の中から世界(コスモス)を創造し構成していく壮大なスケールでの「創造物語」です。それに対して2 章4 節後半から始まる「ヤハウィスト資料」(古代からの伝承が集積した資料で、神の名は「ヤハウェ」と書かれていて、まずは4 章24 節まで続く)が描く物語は、「人間の創造」を焦点としています。「人間とは何ものなのか」を問い、人間が生きる上でまとわりつく性や労働や関係の「痛みや苦悩」についての洞察が込められています。
ヤハウェ神は、何よりも最初に「人」を創造されました。それにアダムという名をつけたのです。それが土(アダマー)からつくられたからでした。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(7節)
人間についてのこのあまりにもシンプルな表現は、しかしその存在の本質について、深く鋭く、しかも他に言い表せないほど的確に言い抜かれています。人は元をたどれば「土」にすぎない。この極限的な「素朴さ」の中に、人間は自身の脆さとはかなさ、弱さと限界とを思い知るしかないのです。けれども、その鼻から命の息(神からの呼吸)が吹き入れられ、「こうして生きる者と」なります。土と息。息を受けた土、息を交わす土塊。これが「生きる者」としての人間の本質だと言い表しました。これまた極限的な「素朴さ」の中に、限りない生命活動の広がり=喜び・怒り・哀しみ・楽しみを伴う人間の生の豊かさと可能性を知らされるのです。古代世界にあって、生きる労苦や人間相互の愛憎の表裏を味わいながら、時に神を見上げて「生きるとはどういうことか」を問うた人々が表現した「人間の本質」とは「神によって息を受け、相互に息を交わし合うべき存在」ということでした。ですから、「息をする」という一言の中に込められた生命活動の裾野はあまりにも広く、また深いのです。人間の駆使する理性も、理性で制御されたりされなかったりする欲望も、喜びや悲しみ、怒りや憎しみといった感情も、共感・共苦する心情も、すべてが「息」に包摂されています。息は通い、息は交(か)わされ、息は弾み、息は切れ、息は荒れ、息は淀み、息は詰まり、そして、息は吹き返すのです。人間は息をして生きているのです。その「息の出どころ」「息のはじまり」を見つめたのが、ヤハウィストの創造物語だと思います。と同時に、「息に詰まり、行き詰まった」イスラエルの姿を深く内省して編集されたのが、この『創世記』の「原初史」なのです。(吉髙叶)