2024年4月28日礼拝「その人とそのままに」

コリントの信徒への手紙一9 章19-23 節

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。
それは、わたしが福音に共にあずかる者となりためです。(コリⅠ 9:23)

本日のテキスト「一コリント」9 章後半は、パウロが、「人々が福音を信じるようになるために、相手の立場がどうであれ、その相手のようになって対応をした」と力説している部分です。その締めくくりの部分で彼が語る「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」という言葉は、キリスト教界ではつとに好まれてきたフレーズでもあります。「福音伝道」に一心に情熱を傾けるパウロの姿勢を強調し、讃えながら、キリスト教会の「伝道への熱心」を鼓舞するために読まれることの多い聖書箇所です。でも、ふと考えてみれば、「もし、そうでないならば」、つまりパウロの証言が、これとは逆であったならば、それは「キリストの福音」でもなんでもないと言えるのです。試しに9 章19-22節を逆転させて読んでみることにしましょう。
「わたしは自由(ローマ市民権を持つ)な者ですから、他人の僕のようになりはしませんでした。ユダヤ人に対しては、『これぞユダヤ人』という見本を示しました。律法に支配されている人に対しては、もっと徹底して律法を習得するようにと激励しました。律法を持たない人に対しては、律法を持つ生き方を示し、しっかり律法を学ぶようにと勧めました。弱い人に対しては、(わたしは強いですから)いつもその人たちを助けてあげました。すべての人たちに対して、『まずは割礼を受けてユダヤ人になり、律法を知り、罪を振り払い正しく生き、できるだけ強くなれるように』と導きました。」
もしパウロがこんな生き方や活動をしたのであれば、それは「福音」(解放の良き知らせ)でもなんでもありません。頑迷な排他的宗教による「改宗活動」に他なりません。
そもそも、「イエスの名による『福音』」とは、相手が誰であれ、属性がどうであれ、性の如何にかかわらず、富んでいようが貧しかろうが、社会から排除されている人であったとしても、「あなたは神に造られ、愛されている尊い存在。神の国はあなたのものです(あなたは神の子です)。」と無条件に宣言することでした。ですから、パウロが「その相手のようにならずとも」、イエスの救いはすでにその相手の人のものなのです。それゆえ、わたしたち教会が注目すべき点は「パウロの熱心さ」の方にではなく、イエスの名による宣べ伝え、それも「十字架の言葉」がそもそも持っている「弱さや低さ」から始まる「出会いとつながりの可能性」を信じて生きてみるということなのです。吉髙叶

関連記事

PAGE TOP