2024年5月26日礼拝「愛の受け皿」

コリントの信徒への手紙一12 章31b 節-13 章13 節

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(一コリント13:13)

「キリスト教は愛の宗教だ」とよく言われますし、耳にします。その印象が強いからでしょう、「クリスチャンは愛に満ちた人たち」という先入観も世間にはあるようです。
クリスチャン自身も、どこかそれを意識してしまって、愛がにじみ出ているようなポジティブ・スマイルを心がけたり、「クリスチャンだから怒ってはならない」と自分に言い聞かせたり。はたまた「教会では議論をしてはいけない」など、あまりに「愛の表象」にしばられてしまって不自由になってしまうことがあります。
他人に対して思いやりを持ち、相手を大切に接すること。それはキリスト教に限らず誰にとっても大事なことであって、クリスチャンに殊更に課せられた姿ではないと思うのですが、どうも愛をキリスト教の専売特許だと考える傾向はまだまだあるようです。
「キリスト教は愛の宗教だ」ということは間違ってはいません。ただし、それはクリスチャンがではなく、神の本質が「愛」であり、神の人間(と人間世界)への想いこそが「愛である」ということに尽きます。その神の愛の内実は、イエスの言葉と業、特に十字架に歩む彼の道がそれを示しています。すなわち、人間の姿がたとえどうであっても、神はその存在を祝福しておられ、その人を丸ごと御手の中に受けとめてくださるというところにあります。ですから、聖書のメッセージの中心は、「愛に満ちた人間になりなさい」ということにではなく、ただただ、「あなたは神の愛の受け皿になれば良いだけだ」ということなのです。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。・・・(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と記される「愛の讃歌」(一コリント13 章)を読むと、「ああ、自分はそうなれない」と嘆く人がいますが、それらは全て神の愛の深みを示しているのであって、人間が到達すべき境地のことを言っているのではありません。そもそも、人間の為すことは、どこか利己的で、高ぶりを秘めており、忍耐にも限度があり、すべてに耐えることなどはできないのです。そんなものです。がんばらなくていいのです。
「いつまでも残るものは愛」「最も大いなるものは愛」。それは人間が立ち入ったり、成り代わったりできるものではありません。しかし、神のわたしへの愛は、この世の何ものにも勝るものであり、そして決して消え去ることのないものなのです。吉髙叶

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