ヨハネによる福音書1 章43-51 節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ1:1,14)
戦争と紛争の止まぬままに新年を、それゆえに平和と希望の訪れを心から祈った元日の朝でした。老いた義父との静かな祈りの時、ささやかな人生の守りと平安を願いました。妻の実家からの帰宅途中に受けた地震警報。それはいつでもどこででも起こるとわかってはいても「今日ではない」と思ってしまっていた「大地震」の知らせでした。此度(こたび)は「能登半島・北陸」でした。さっきまで団欒(だんらん)の中にいて、老いた親をいたわり、帰省した孫の顔に目を細めていたに違いない人々を引き裂き、一転して悲しみと絶望の淵に突き落としてしまう。またもや自然の脅威の前に力無き人間の事実を突きつけられ、言葉を失います。そしていつも思います。「わたしだったかもしれない」。
日が明けると共に映し出される「瓦礫」と「焦土」の映像。もちろん東日本大震災の映像が重なります。家族が埋まっている倒壊現場で手を合わせている人。「『助けてください』という声が聞こえてたけれど、どうすることもできなかった。ごめんなさい、ごめんなさい」と泣いて詫びる人。どうしてだ、なぜだ。人生の厳しい「なぜ」に、ただうなだれるしかありません。
能登各地の「瓦礫」と、ガザの「瓦礫」が重なります。違うものなのですが重なってきて、問いかけてきます。これは同じなのか、違うものなのか。決して同じじゃない、でも、「瓦礫」がこんなに悲しいものなのに、なぜ人間は、わざわざ町を砲撃し瓦礫の原にしてしまうでしょう。その瓦礫の下に命があり、その命と結ばれていた人々が腸(はらわた)がよじれるように呻いていることを、なぜもっともっと感じられないのでしょうか。三陸海岸の瓦礫、熊本の瓦礫、能登の瓦礫の中から人は、それでもまた立ち上がり、きっと希望を生み出していくでしょう。けれどもガザの瓦礫の中から生まれるものは、怒りと憎しみです。わたしたち人間は、そんな「瓦礫」をこれ以上生み出してはなりません。
悲しみの瓦礫の中から手を結びあって明日へと歩むのが人間です。神の力は、そのつないだ手と踏み出す足に注がれるのです。新年1 月より『ヨハネによる福音書』を読んでまいります。「言は肉となった」というヨハネの「受肉のメッセージ」を、今こそ「瓦礫に希望が宿ろうとする出来事」として受けとめ直しましょう。瓦礫に押しつぶされ、誰にも知られず、誰もがどうにもできなかった命、そして死。そうした人間の弱さの現実(肉)に宿りつながり続ける「神の想い」に目を向けていきたいのです。吉髙叶