エレミヤ書30 章1-9,18-22 節
見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。(エレ30:3)
本日と次週(11/10)にかけて読んでいく『エレミヤ書』30-31 章は、独立して書き留められたもので、イスラエルの回復を予告する「慰めの預言」とも呼ばれています。手前の29 章までと、後ろの32 章からはゼデキヤ王の時代の預言です。ゼデキヤ王とは第一次バビロン捕囚の後にバビロニアのネブカドネツァル王によって立てられた「傀儡(かいらい)の王」です。つまりユダ国最末期の預言の流れの中に挿入されたのが30-31 章です。そこに挿入されると内容的にとても合致したからなのですが、実は30-31 章のブロックは、エレミヤの預言活動の最初期のものです。どれくらい初期かというと、20 歳で預言者となったエレミヤが25 歳でヨシヤ王の宗教改革に直面し、厳しい預言活動を中断するまでの5年間(これが「最初期」です)の間に語った預言です。
この預言ブロックは「慰めの預言」と名付けられるとおり、散らされたイスラエルの民が集められ、崩壊した都が再建されていく内容となっていますが、30 章の書き出し(4-7節)には、「ヤコブの子ら」が味わう裁きの厳しさが語られており、同じく最初期の「断罪と悔い改めの呼びかけ」(3 章1-4 章4 節)につながっています。エレミヤは、その最初期から「神による回復の夢(ビジョン)」を掲げた上で「悔い改めの呼びかけ」をしており、ただし、そのためにも「いったんは厳しい裁きがもたらされる」ことを預言したわけです。
ただ、ちょうどその頃、アッシリアの衰退が加速していて、新興国への防戦に力を削がれるアッシリアの、ユダ国への締め付けが緩(ゆる)んでいた時代でした。それでユダ国では、マナセ時代に覚えた放埒(ほうらつ)と悪習とがかえって花咲いてしまい、エレミヤの預言を嘲(あざけ)り、歯牙(しが)にもかけない状態でした。エレミヤとしては、「裁きと崩壊」を突きつけるのが目的では無く、「神の回復の夢(ビジョン)」を示して指導者たちに悔い改めを迫るのが目的でしたが、受け入れられず、かえって「反ユダ」の烙印を押されてしまうことになります。
エレミヤ「30-31 章の預言」と、「29 章まで&32 章からの預言」には30 年のブランクがあります。後者は、第一次バビロン捕囚に直面し、ユダ崩壊が目前に迫っていた時代です。その時になってリアルに迫る「慰めの預言」は、実に30 年前もの過去に語られていたものなのです。見方を変えれば、「神の回復のビジョン」に包まれながら、ユダの人々は過ちを犯し続けていたということです。神を顧みない背信の時を、神の顧みは忍耐強くずっと包んでいたということなのです。神は夢を捨てておられないのです。吉髙叶