2024年12月15日礼拝「ヘロデ王の時代に」

マタイによる福音書2 書1-8 節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。(マタ2:1)

先週の巻頭言に続き、『マタイ福音書』と『ルカ福音書』の「メシア(キリスト)降誕」のコンセプトの対比をもう一つ。『マタイ福音書』は、メシアは「預言の約束の中にお生まれになった」ことに焦点を当てます。しかし人々はメシアを「認めず、見誤り」殺そうとさえした。そのような危機の中にあって「メシアは神に守られていた」という流れを持ちます。『ルカ福音書』は、メシアは「貧しさの中にお生まれになった」ことに焦点を当てます。それゆえ人々はメシアを「見いだせず」、ただ羊飼いや老いたシメオンやアンナたち「貧しい人々によって祝われた」という流れを持ちます。
ヘロデ大王と、その統治に毒されたユダヤ教指導者たちの心眼の曇り。神の約束を忘れ、神に期待を置くことから遠ざかってしまい、暴力の横行、律法の誤用・乱用、倫理の頽廃が人々を覆ってしまった。そのような「暗闇」の世界に、メシア(キリスト)は預言の通りに到来なさった。当のユダヤの民はメシアを受け入れようとしなかったが、民と共にあろうとするインマヌエルなる神の心はイエスによって決定的に明らかにされた。『マタイ福音書』はそのようなトーンに貫かれています。
『マタイ福音書』2 章は、クリスマス時期にもっぱら1-12 節の「東方の学者らの来訪」の部分ばかりが読まれますが、2 章全体は一体化していて、それに表題をつけるとすると「この世の権力はメシアを拒絶し戦う」となりましょうか。ヘロデ大王がメシア誕生の報に強い不安を抱き、遂にはベツレヘム地方の2 歳以下の男児を虐殺したという、まさに「この世の支配者の暴力と、そのおぞましさ」を描くことに力点を置いています。かつてエジプト王ファラオがイスラエル人の人口増殖を怖れ、男児の皆殺しを命じる中、かろうじて救い出された赤ん坊・モーセが、やがてイスラエルの民を率いて「出エジプト」を成し遂げるモティーフに、この「マタイ2 章」が重ねられているのは間違いないでしょう。続く3 章からは、ヘロデやユダヤ宗教支配者たちの堕落を糾弾する「バプテスマのヨハネ」のもとにイエスが現れてバプテスマを受け、ただちに荒野にてサタンから「権力者となる誘惑」を受けながらもそれを退ける、という記述が続きますから、まさに「ヘロデ的な力の暗闇」を、メシア登場の舞台として描いているわけです。マタイが描く降誕物語には、暴力的支配者によって消されていく命たちの叫びが響いています。新しい王はそのような「王」ではない! という宣言が込められているのです。吉髙叶

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