マタイによる福音書1 書18-21 節
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(マタ1:19)
今月より来年3 月末までの4 ヶ月間は『マタイによる福音書』を読んでいきます。イエス・キリストの言葉と業に向かい合う嬉しい時となります。
「マタイ福音書」は紀元80 年~ 90 年代にシリア地方で記されたと思われます。ユダヤ教から改宗したイエス信者たちを強く意識していますから、「律法と預言」とイエスとの関係を強く連結させながら主イエスの生涯を記していきます。例えばイエスによる「山上の説教」はユダヤ教の律法をみずみずしく捉え直していて「律法の成就者(真の解釈者)」としての姿を鮮明にしています。また冒頭のイエスの系図はアブラハムからダビデを経由したつながりを重要視しており、イエス誕生の告知では、ユダ国崩壊期のイザヤ(やエレミヤ)の預言(メシアの到来)が、まさにイエスのことであると示唆します。イエス誕生の時代の暗闇の主(ぬし)はヘロデ王やユダヤ貴族たちで、その暗闇はイエスを葬ろうとします。他方、メシア誕生の知らせを感知して訪れるのは、東方(かつての支配国アッシリア・バビロニア・ペルシャ地方)の天文学者たちで、まさに「時を超えて預言の成就を証ししにやってきた」と言う風に、古くからのメシア預言の実現を印象づけていきます。ユダヤ主義的な価値観の「ダビデの末裔」とか「律法」とか「男系」とかを重視するからでしょう、降誕物語のスポットは系図を背負ったヨセフにあてられます。
これに対し「ルカ福音書」は、執筆年代はマタイと同年代ですが、ローマ帝国支配下に広がりつつあった異邦人キリスト者たちの群れを読者としていますので、暗闇の盟主(めいしゅ)は絶大な権力者・ローマ皇帝であり、それに対置して、名も無く貧しい女性たちや羊飼いたちが降誕物語の登場人物となっているわけです。編集の動機や射程が異なる両福音書を対照的に読んでいくことは、初代教会の姿や信仰を理解していく上で有意義です。
さて、本日の「マタイ1 章」では、婚約していたマリアが結婚前に懐妊していることを知って苦しむヨセフの煩悶(はんもん)が描かれます。彼は「正しい人であったので」、マリアのことが表沙汰(おもてざた)になるのを好まず、密か(ひそか)に縁を切ろうとします。天使の介入でそれは回避されますが、このヨセフの「正しさ」とはどういうことなのか? この「正しさ」には相手女性の行く末がどう慮(おもんばか)られていたのか? 誰の何が、どう守られるのだろうか? など、黙想・連想のポイントは多々あるのですが、それらを突き抜けて生まれたイエスの命の意味もまた、新たに迫ってくるのかもしれません。女性たちと子どもたちの命が、おろそかにされていく、いまという時代の中で。吉髙叶