コリントの信徒への手紙一3 章4-11 節
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。(コリⅠ 3:6)
【聖書と私(巻頭言に代えて) /吉髙叶】わたしたちは聖書を大切にしています。現在(いま)の自分(たち)の生き方を大切にするために聖書を読んでいきたいと思っています。そのためには、常に聖書を解釈することが重要です。「聖書は一言一句、字句通り、字義通り受けとめねばならない」と考える人たちもいますが、そんなことをしたら、現在(いま)を生きる生き方が無茶苦茶になってしまいます。聖書は紀元前1200 年頃から紀元120 年頃までという1300 年以上の年月の間に、時代も状況も地域も異にする環境の中で、それぞれの場面を生きた人々が「神」を思い巡らし、「神の御心(みこころ)」なるものを聞き取ろうとして書き残し、また編集した文書群のまとまりです。今から3000 年前とか2000 年前とかのそうした行動や慣習や考え方を、そのまま現代に当てはめようとすることそのものが無茶なことです。ですから、常に聖書を解釈したり、場合によっては評価を加えて(評価しないという判断もあっていいのです)読んでいく必要があります。
その場合、「解釈基準」をしっかりと持つことが大切になると思います。私は、聖書を読む解釈基準をイエス・キリストに置きたいと思っています。しかもローマ帝国支配下のパレスチナを生き、宗教的・社会的差別に苦しむ人々の解放にかかわり、十字架にかけられて死に、神によってよみがえらされたイエスの言葉と業(わざ)とを、聖書全体を読んでいくときの解釈基準にしたいと思います。一例を記しますと、たとえば、旧約聖書を読んでいると「他民族の皆殺し」を神が命じている箇所があります。ほんとうに神はそんなことを命じる神なのでしょうか。私は、福音書が証(あかし)したあのイエスならそんなことを言うはずはないし、イエスを救い主としてお与えになった神がそんなことを命じるはずがないと信じます。ですから、旧約聖書のそのような箇所を「神の御心」として受け入れはしません。その時代の人間(イスラエル)の思想が投影(とうえい)されたものとして捉え、その上で記されている出来事を考察します。「解釈し、評価を加える」とはそういうことです。
聖書をそんな風に読むとはけしからん! と怒られそうですが、そんな風に読まないと、自分をも他者をも大切にできなくなるのです。旧約聖書だけではありません。イエスの復活後に記されていった新約聖書の諸文書(パウロ文書など)にしても同様です。イエス(キリスト)を基準にして解釈し評価して読んでいきたいと私は思います。(吉髙叶)