2024年6月9日礼拝「出会いで充分」

コリントの信徒への手紙二2 章14 節~ 3 章6 節

わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それはわたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。(二コリント3:2)

『コリントの信徒への手紙二』(以下「第二コリント)は、パウロ自身がとても「わたし」を押し出している書簡です。この手紙の中で彼が多発する「わたしたち」も、そのほとんどは「わたし(パウロ)とシルワノとテモテ」という自分のチームのことを意味しています。手紙の書き手と読み手たちを抱合する「わたしたち」ではないのです。ですから14 節の「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」とか「わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせ」という時の「わたしたち」は、キリストを信じる人々全般のことを指しているのではなく、「パウロとそのチーム」のことを言っています。

すごい自己主張ぶりに、ドン引きしてしまいそうです。でもなぜ、パウロは「第二コリント」書では、そうまでして自分を押し出すのでしょうか? それは、コリントの教会に、強烈なユダヤ主義者たちが入り込んでいて、パウロの言葉や立場、振る舞いをことごとく非難し、パウロの「キリストの使徒」としての正当性を徹底的に否定していたからでした。パウロはそれらの人々から、とことん悪罵(あくば)されました。「離れていれば強気だが、面と向かっては弱腰」「手紙は重々しいが、会ってみると弱々しくて、話もつまらない」「どちらともとれる曖昧なことばかり語る」「エルサレム教会からの推薦状をもってないので自己推薦している」「集めた献金を着服している」「愚か者だ」「肉体の棘(『障がい』)を抱えている」「失格者だ」・・・そんな罵詈雑言(ばりぞうごん)の数々。

「第二コリント」は、そのような自分に浴びせられた悪口の言葉を逆手にとって、それに反論しながら、「自分が間違いなくキリストを宣べ伝える使徒であること」と、それゆえ自分とコリント教会の交わりの中に与えられた信仰が、いささかも偽りのないものであったことをコリント教会に伝えようとしています。と同時に、使徒の権威とか資格とか、イスラエルの優位性とか、律法や割礼の重要性とか、そのようなものを再び振りかざすことを拒絶する主張なのです。本日の箇所では「推薦状」、いわゆる「使徒職のお墨付き」の問題です。そんなものは必要ない。わたしとあなたがたが出会い、キリストを分かち合い、信じ、受け入れ、喜んだ。その事実で充分なのだ、と言い抜くところなどは、教職制を強調しない「バプテスト会衆主義」に、大いに通ずるところです。吉髙叶

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