2025年2月23日礼拝「”十字架を背負う”って」

マタイによる福音書16 章13-24 節

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24)

キリスト教の「信仰理解」や「神学的立場」には、両極として「栄光の神学」と「十字架の神学」があります。「栄光の神学」は、「イエスが神の御子であり、人間を滅びより救うために天より降って来て、十字架に命を捧げ、しかし、死に勝利して復活し、天の栄光の座にあって永遠を支配しておられる」という、いわゆる「キリスト教教理(きょうり)の王道」的な立場ですが、極端な場合は、この教理のために聖書を読もうとしてしまい、この教理に当てはまらない聖書の読み方を排除したり、断罪したりする傾向があります。キリストの「神の子性」と「天来の栄光」をとても強調する立場です。これに対して「十字架の神学」は、一足飛び(いっそくとび)に「わたしたちの罪の代償としてイエスは死なれた( 贖罪論:しょくざいろん)」と直結させるのでなく、なぜイエスは十字架で死ななければならなかったのかを見つめていこうとします。十字架とは、ローマ支配に対する反逆者への処刑でしたが、イエスの生き方や言葉の「何か」が、ユダヤ教指導体制やローマ支配体制の逆鱗(げきりん)に触れ、殺害を企図(きと)され、陰謀(いんぼう)の末に処刑されていったわけです。イエスの持っていた「何か」だけでなく、イエスを抹殺しようとした人々の「何か」もしっかり見つめます。イエスの人間的な目線や交わり。肉体を持つが故の限界。なんと言っても、されるがままに殺されていく「神の子の片鱗(へんりん)を見せることのない弱さ」。そうした「人の子」としての姿に注目しつつ、「その弱さにこそ、神の真の想いが宿っていた」という「逆説」的な見つめ方・捉え方が「十字架の神学」の特徴です。
マタイ福音書16 章13-28 節のブロックは、ペトロの信仰理解の構造が浮き彫りにされているエピソードで、前半では、ペトロは、イエスの問いに答えて「あなたこそ生ける神の子、メシアです」と告白して「称賛」されますが、後半では、イエスがこれから自分に起こる受難の予告をすると受け入れきれず、イエスをたしなめ、その結果、イエスから叱責(しっせき)されるという振幅(しんぷく)の激しい部分です。16 章の手前までには、イエスによるいくつもの「奇跡物語」が配列されていますから、ペトロの告白はそんな「栄光のイエス」に魅了されたゆえのものだと考えられます。しかし、反転させると「十字架のイエス」は受け入れることができないのです。このペトロの抱いた「メシア像」は、前述した「栄光の神学」と「十字架の神学」の分水嶺(ぶんすいれい)にもとても関係があると感じています。吉髙叶

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