2025年6月15日礼拝「あの頃のぼくは」

フィリピの信徒への手紙3 章2 ~ 11 節

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら・・・(フィリピ3:10)

『フィリピの信徒への手紙』は全体として喜びのトーンが貫かれており、フィリピの読者たちに対する親和性に満ちたものです。ところが、3 章に入るととたんに非常に荒々しい表現による「警告」が語られます。それはフィリピの信徒たちを惑わしていた人々、すなわち異邦人のクリスチャンたちに対して「割礼の必要」や「律法の習得」を要求していたユダヤ化主義的なクリスチャン指導者たちに向けられた怒りでありました。パウロは、それらの人たちのことを「あの犬ども」と呼びます。「あの犬ども/トゥース・キュナス」とは激しいですね。でも、この表現は「お返し」なのです。古代ユダヤ社会において「犬」は、異邦人を指す蔑称でした。ユダ化主義的なクリスチャンたちが異邦人キリスト教徒に対して使っていたこの侮辱的な表現を、パウロは意図的に彼らに対して投げ返しているのです。とてもパンチの効いた皮肉だと言えます。
割礼(ペリトメー)は、男性のペニスの表皮の一部を切り取る施術で、アブラハムの子孫の印とされてきました。言うならば肉体的な(表面的な)印をもって、特別に救われる人間の証とするわけです。ユダヤ人にとって神聖なその行為を、パウロは「ただの切り刻み(カタトメー)に過ぎない」と言い放ちます。肉体を傷つけ、毀損しているだけのことだ、と。表面的な形、出自、地位に依存し固執する「信仰のあり方」への強い嫌悪と激しい抵抗が表されています。このあたりのパウロの物言いには容赦がありません。
こうした「ユダヤ化」強要者たちとの対決は、パウロにとって、かつての自分の生き方と向き合ってのことです。ユダヤ的伝統、学問、生き方という点では完璧レベルであった過去の自分。しかし、その実、常に歪んだ自我(臆病を纏った自尊心や傲慢な姿で表面化するコンプレックス)に苛まれ、功名心と暴力に身を浸していた醜い自分の姿と対決しているのです。キリストとの出会いは、わたしを「苦悩するわたし」から解放してくださった。真に自由にされたのだ。だから二度と「奴隷の軛」に繋がれてはならないし、誰をも同様の鎖に繋ぐようなことをしてはならないのだ、それが彼の確信です。彼は、以前、自分が誇りとしてきた「価値」を「塵あくた」(スキュバラ)と表現しました。実はこの語、もっと汚いニュアンスです。「排泄物」「糞」「腐った残飯」を意味します。こうした衝撃的な言葉の中に、彼の転換の激しさが伝わってきます。吉髙叶

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