2025年1月5日新年礼拝「ガリラヤから来た人」

マタイ福音書3 章13 節

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである。(マタイ3:13)

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
「集まって祈り、神に聞く」。このテーマで歩む2024 年度は、マタイによる福音書の冒頭部分を丹念に読みながら年を跨ぐことへと導かれました。ヘロデのたくらみをかいくぐりながら幼子に見(まみ)え、喜びに満たされ、新しい道を歩み始めた東方の学者たちの姿を心に留めながら年末年始を過ごしていることの意味を噛みしめたいと思います。
マタイ共同体が「福音書」を著した背景には、その時代に対する「ずっしりとした怒り」が横たわっているように思います。イエス誕生(2 章)とイエス登場(3 章)の記述には、時代を荒らし民衆を悲しませてきた「この世の王」への強い批判が重ねられています。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった(2:1)」。「(ヨセフと家族は)ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ(2:22-23)」。「洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え(3:1)」。「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた(3:13)」。こうした「イエス誕生・イエス登場」の舞台(地名)を連結させて描く流れの中に「イエス到来の時代設定」が組まれており、マタイが福音書全体の中に込めている「救い主として顕れたイエスの宣教の意味」のオリエンテーションがあります。
バプテスマのヨハネは、「旧約時代」の救い主待望の途方もない時間の限界点に立っていたかのようです。長く続く迷いの歴史に堪えながら、ひたすら救い主を待ち望む預言者たちの群れに連なって、ヨハネは最も鋭く、最も徹底的に、神の約束に目を凝らした人です。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ!」。ここには、堅い信仰と裏腹に、人間の怒り、人間の焦り、人間の深い失望が込められているようにも思います。沸点(ふってん)を迎えた義憤(ぎふん)の叫びが、真摯な信仰者の中から飛び出しています。これも、暗闇の中で懸命にもがく義人たちの姿であり、イエス登場のもう一つの時代設定・舞台設定です。
ベツレヘムの悲しみ、ガリラヤの混乱、ナザレの悲哀、こうした中からイエスはヨハネのもとに現れ、ヨハネと深く接触し、ただし、ヨハネのもとには留まらず、そこから進んで行きます。新しいことば、新しい交わり、新しい道が、始まっていきます。吉髙叶

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