マタイによる福音書28 章16-20 節
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいきる。(マタ28:19-20)
マタイによる福音書28 章は、復活のイエスがガリラヤの山で弟子たちと再会し、すべての民のところへ派遣するシーンで終わります。この聖書箇所をキリスト教会では「大宣教命令」と呼び、「世界伝道」(世界各地へ宣教師を派遣する伝道アクション)の根拠としてきました。でもどうしても、「こちらからあちらへ」「救われている側から未だ救われていない側へ」という「上から目線」のアクションになってきたと感じています。そこには、人間にとって「イエスはキリストである」ことを認識し信じることが、他のどのような認識にも増して重要で、それなくしては地上のどのような幸福を手にしても無意味である、という宗教的信念があって、それが教会の伝道(布教)第一主義の姿勢を作ってきたと言えます。世界史大で捉えれば、大航海時代に、欧米キリスト教大国が、競って世界の諸地域を植民地にしてきたことも、そうした宗教的信念がつくりだした歴史です。マタイ福音書のラストシーンが、マタイ共同体の葛藤や祈りや決意と切り離されて、宗教的スローガンのように振りかざされることはとても残念なことです。
マタイ共同体は、ユダヤ戦争でエルサレムの町と神殿が破壊されてしまう悲劇に見舞われた後の時代を生きています。それはユダヤ教の祭儀信仰がその根拠と必然性を喪失してしまい、「神の戒め」に応えて生きる新しい生き方を問われている時代でもありました。と同時に、ローマのキリスト者迫害を逃れて、シリアという異邦世界に生き、異邦人たちに向かい合って生きていくという「未知のステージ」を迎えていたのです。そのような中から、「神の約束のメシア」としてのイエスを信じ、割礼や祭儀ではなく「神の心を受ける生き方」をイエスの言葉に見いだし、民族・国家を異にするすべての人々と共に、「神の前で共に生きる」道を掲げた、それが『マタイによる福音書』です。冒頭にユダヤ的・ダビデ的系図を記し、神の律法を再解釈するガリラヤでの「山上の説教」、そして全ての民への派遣命令。他の福音書には見られないマタイ特有の記述の中に、ユダヤ主義と世界主義の融合と葛藤があり、エルサレム祭儀・律法体制の崩壊を突き抜けて、神の救済の真意をつかみ取ろうとした「マタイ共同体」の懸命の労苦があるのです。そしてそこに授けられた信仰告白としての「イエス・キリストの物語」、それが『マタイによる福音書』なのです。この福音書と共に歩んだ五ヶ月を感謝します。吉髙叶