マタイ福音書26 章47-56 節
音声プレーヤーイエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタイ26:52)
ユダの裏切りの真意はあまりよくわかりません。後々「裏切り者」の代名詞のように言われるユダですが、彼だって裏切るために寄り添ってきたのではないのです。ユダの心中を襲った不安、ないしは誘惑、あるいは落胆、きっと持って行きようのない怒りのようなものが湧いてしまったのでしょう。けれども、神に対し、またキリストに対し、自分本位の期待を抱き、思い通りに進まず不安になり、真意がわからず疑いの誘惑に陥り、神に落胆し、怒りを向ける、それを「裏切り」と呼ぶのであれば、私たちの信仰は「裏切りの連続」です。キリストは、私たちから何度も裏切られ、何度も捨てられ、何度も他の何か(銀30 枚)と交換されてしまっているのだと言わざるを得ません。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」苦難死の杯をめぐる神との壮絶な向かい合いにイエスが喘いでいた時にも、弟子たちは眠りこけていました。本人たちは、イエスに寄り添っているつもりなのです。イエスに従う人間の自意識など、そんなものです。
イエスが、神の手から杯を受ける覚悟をしたその時、厳かな決心をしたその祈りの場に、祭司長たちや長老たちから送り出された大勢の人々が、剣や棒を手にして踏み込んできました。慌てた弟子たちは、イエスが受け取った杯の意味も、イエスの覚悟のことも、何も感じることのできないままに、いきり立って彼らに対峙します。でも、そんな弟子たちとて、イエスの杯を共に担ってその場に立っていたわけではありませんでした。
この夜のゲッセマネは、夜憎しみと怒りとおののきとが闇のようにイエスを囲んでいました。既にイエスは完全に孤独であり、神の御心だけがイエスを支えていました。
その場の恐怖に耐えきれなかった弟子の一人が剣を振り回しました。闇の中に振るわれた剣は人を傷つけるだけの無意味なものでした。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」抜いた剣がもたらすあらゆる負の行く末を制し、イエスは言葉を遺しました。マタイ福音書だけが記す言葉ですが、世界史に深く深く刻まれることになる大切な言葉です。神のみ業は、この世の力や武力によって成就するものではない。あの夜、イエスが覚悟した十字架への道。無防備に、無償に、抜き放たれた神の愛だけが、救いの御業の唯一の方法なのだと、マタイ共同体は受け取めていったのでした。吉髙叶