ガラテヤの信徒への手紙2 章15-21 節
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実(ピストゥス)によるのだということを知って・・・(ガラ2:16/聖書協会共同訳)
『ガラテヤの信徒への手紙』は、非ユダヤ人クリスチャンたちに対して、「割礼」や「律法遵守」などの行為をあくまでも求めようとするユダヤ主義クリスチャンの考え方に対して、パウロが激しく反論した書簡であり、いわゆる「行為義認」に対する「信仰義認」の主張です。2 章の後半は、その主張の核心に入っていく部分で、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(2:16)と記すこの言葉こそパウロの強調点の中心です。
ところで、「イエス・キリストへの信仰」」のギリシャ語句「ピストゥス イエス クリストゥ」の解釈(訳し方)は、パウロ神学の理解にとって非常に重要なポイントで、長年議論されてきました。伝統的には「イエス・キリスト(への/に対する)信仰」という客観属格で理解されることがほとんどでした。これは「人がイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」という理解です。しかし、2018 年に刊行された最新の聖書(聖書協会共同訳)が採用したのは、「イエス・キリスト(の)信仰/忠実」と主観属格で訳す理解です。これはかなり重要な変更点で、私はこの変更をたいへん歓迎しています。
主観属格で解釈すると、義認(人間の救い)の根拠は、私たちの「信じる」という行為にあるのではなく、(それとは無関係なほどに)それに先立って、まず第一にイエス・キリストご自身の神へのピストゥス(忠実/信仰/信実)にあるのであり、しかも十字架の死に至るほどに忠実であったのであり、そのキリストのピストゥスが、私たちの救いの基盤であるという視点です。「義認(救い)」は、人間が何かを成し遂げること(たとえそれが「信じる」という内面的な行為であっても)に起因するのではなく、まさに、ただただ神から(キリストから)の恵みなのだということが一層際立つのです。
今日は召天者記念礼拝です。先に召された44 名の方々の遺影を飾り、名前を呼んで記念します。この方々の中には、私たちの教会のメンバーもいれば、そうでない方々(教会員のご家族)もいらっしゃいます。ですから、私たちが、いま記念しようとしているのは「故人の信仰や信仰生活」のことではありません。私たちが誰であっても、私たちがどうであっても、私たちと神とを結び合わせてくださるキリストの「ピストゥス」が、これらの人々をも包んでいたということを覚え、その恵みの業に感謝を捧げているのです。吉髙叶