2025年5月25日礼拝「自由~キリストの風に吹かれて~」

ガラテヤ書5 章2-15 節

あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(5:13)

イエスの歩みと言葉を記した「福音書」を読んでいると、人間の自由や不自由について深く問いかけられます。権力や財や地位を持っている、言わば自由であるかのような人たちが、実は身動きが取れないほどに何かに縛り付けられていて、しかも他人に対して不自由や抑圧を強いてしまう存在になってしまうことがわかります。その典型が「ファリサイ派の人々」や「律法学者たち」です。他にも「富める青年」や「ポンテオ・ピラト」なども何かに縛られていて苦しんでいます。しかし他方では、罪人呼ばわりされていた人々や重い病気を負うていた人たち、すなわち不自由を強いられていた人たちが、祝福されたり癒やされたりして、自分を喜び、人生に希望を得ていく様子も描かれています。弟子たちも、イエスの死までは自分たちの思い込みや欲望に囚われていますが、復活のイエスと出会い聖霊を受けてからは、ずいぶんと変えられていきます。パウロも同様に、復活のイエスとの出会いを通して、自分がどれほど歪んだ自己愛に囚われていたかを知るに至り、180 °の方向転換をしていきます。
自由と不自由。これは「ある状態」を固定的に定義するようなものではなく、常にその人の、その時の内面のあり方と関係があるのだと思います。そしてその「内面のあり方」に関係しているのは他者との出会いであったり、他者への心の向け方であるように思います。聖書の言葉で言うならば、「愛」と関係があるようです。そう言えば、この「愛」というものもまた、自分の努力で手に入れたり、自分ひとりで成ってしまえる状態のことではなく、常に他者との関係性の概念ですから、愛も自由も「他者を必要とする」ということ、自由とは愛されたり愛したりすることと関係がある、ということでしょう。
ガラテヤの信徒への手紙の5 章は、パウロが「自由」について論じている箇所です。何からの自由か、というとそれは律法からの自由です。律法とは自分をよく見せようとか、自分の力で自分を祝福しようとする欲望(肉の想い)の象徴です。この律法によって人間は救われるどころか、ますます自分の欲望の奴隷になってしまうと言うのです。これから救い出される(解放される)ためには、ただキリストの信実を受け入れ、「愛されている自分」を知りさえすれば良いのだと。と同時に、他者(隣人)に向き合い、相手を大切にしようとする(愛)ことが自由なのであり、それは聖霊の誘いなのだと語ります。吉髙叶

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