フィリピ書2 章1-11 節
キリストは、神の身分でありながら、・・・かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。(フィリピ2:6-7)
本日は、「教会の誕生日」とも称される「ペンテコステ(聖霊降臨日)」です。復活されたイエスが天に上っていかれた後、エルサレムに集まって祈っていた弟子たちの上に、イエスが約束なさっていた聖霊が、激しい風のような音と共に、炎のような舌となって降り注ぎ、弟子たちの上にとどまったのでした。この聖霊のとどまりを受けた弟子たちは、もはや恐れおののく臆病な姿を変えられ、怖じけずにイエス・キリストの復活を宣べ伝える者・復活の証言者へと変えられていったのです。
このペンテコステの出来事を思うとき、私たちは弟子たちの「力強い変貌」や「他言語の獲得」「異言を語る」といった奇跡的な現象に心を奪われがちです。これで、もう何も恐がるものはない、何にも妨げられることはない・・・?いいえ、弟子たちのそれからの歩みは、決してそうではなかったのです。行くところ行くところで、排斥と迫害、無理解とあざ笑いの洗礼を受けながらの旅路でした。それらを生き抜いて行くしかない、そんな彼ら/彼女らに授けられた力は、違いを超えて出会う力、相手を受け入れ祝福し、交わりを続ける力でした。そのために互いにへりくだって生きる姿でした。その交わりをこの世の力は引き裂くことができないということを信じる力でした。それはまさしく主イエスの姿でした。そのイエスの十字架への道とその歩みの姿をこそ、自分たちが辿っていく道と歩みの姿にして生きよう! そのような決心が弟子たちに深く宿った、それがペンテコステの出来事の大切な本質なのだろうと思います。
フィリピの信徒への手紙2 章6-11 節は、パウロが記した言葉ですが、すでに初代教会の人々が共に共有していた最も初期の「信仰告白」だと言われています。「キリストの低さ・貧しさ・弱さ」こそが神の御心に適い、神はこのイエスを高く引き上げられたという「逆転」を心に刻んだのでした。この「低いところ」こそ「高いところ」であり、その「高いところ」から降ってくる聖霊は、「低いところ」を生きる人々に留まり、「低いところ」で交わされている神讃美(希望を神に向ける祈り)を、神は「高いところ」の出来事となさるという「逆説」に生き抜こうとしたのです。
聖霊を受ける。それは「低いところ」すなわち、「主イエスの低さと神への信頼」に、私たちも招かれていて、その招きを喜んで受け取るということではないでしょうか。吉髙叶