2025年9月7日礼拝「「強く、雄々しく」なくていい」

ヨシュア記1 章1-9 節

わたしは強く(ハーザク)、雄々しくあれ(アーマツ)と命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。(ヨシュ1:9)

三バプテスト教役者(牧師・主事)会に参加してきました。休憩時間に一人の方から呼びかけられ「『聖書教育』ヨシュア記、読みました。『強く、雄々しくという訳語は、あまり良くない』って書いてくださってありがとうございます。ずっともやもやしてました。」と伝えられました。「やっぱりそうだよね」と返すと、「それと、アンネ・フランクの『優しくあれ、そして勇気をもて』という言葉を教えてくださってありがとうございました」という言葉もいただきました。「いいでしょう~、いい言葉です。いまは、それで生きていきたいですよね~」とご返答しました。
「ヘブル語のハーザク/アーマツ」を、ずっと日本語の聖書は(どの訳も)「強く、雄々しくあれ」と訳してきました。意外にも、このフレーズはたくさんのクリスチャンたちに好まれてきました。励ましに満ちたフレーズ、ということでしょうか。それにしても、「強いこと、雄々しい(男らしく勇ましい)こと」が励ましになってきたのだとすれば、それそのものを見つめ直すべきでしょう。『ヨシュア記』の場面設定は、これからカナンに侵入し、先住民との対決( 戦)に入っていく文脈ですから、「ハーザク/アーマツ」を「強く、雄々しくあれ」と翻訳すると、どうしても戦意高揚の意味合いになってしまいます。
けれども、『ヨシュア記』が編纂された「バビロン捕囚」時代の文脈で訳すならば、「強く、雄々しく」ではないような気がします。そもそも「強く、雄々しく」を標榜した男性指導者たちの軍事的画策の末に国が滅んでしまったわけですから、「ハーザク/アーマツ」は、むしろ「神への信頼を動かさず、しっかりと(約束を)つかんでいなさい」と訳す方が状況に即しています。それに、「強いこと」や「猛々しい姿」は、主イエスの姿と相容れません。主イエスの生涯の姿はつくづく低かったですし、貧しかったですし、十字架にかけられてしまうほど弱かったのです。でも、その低さを通して接近し、貧しさを通してふれあい、弱さを通して相手を理解した人でした。そんな主イエスの姿の中にこそ、「ハーザク/アーマツ」の自分に刺さる「語意」を探していくことこそが、聖書を味わうということではないでしょうか。いま、プーチンさん、ネタニヤフさん、トランプさん、習近平さんのような戦乱世界の指導者たちの姿をみれは見るほど、「強く、雄々しく」あることに嫌悪感を感じてしまう・・・。その方がよっぽどまともだと思います。吉髙叶

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