2025年10月12日礼拝「広がりのしるし」

マタイによる福音書12 章38-42 節

よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。(マタイ12:39)

『ヨナ書』シリーズの2 回目の今日は、ヨナ書に関連した福音書の記事に注目してみます。テキストはマタイ福音書12 章38-42 節です。「福音書」は、イエスにまつわる様々な伝承や資料を、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネそれぞれの共同体が、置かれた時代や、共同体の構成員が直面していた課題に即して編集されました。共通した伝承もあれば、独自に入手した伝承もあり、それら断片資料を配列する位置も異なっています。従って、「福音書」からメッセージを聞き取る際には、前後の文脈が実に大事になってきます。
マタイ12 章は、「誰が救われるのか」「誰が神の民なのか」をめぐって、イエスが当時の宗教的な常識を根底から問い直している章です。論争相手は、律法学者やファリサイ人。彼らの大切にする律法主義、民族主義、血統主義を越えて、「神の意志を行う者こそが新しい『神の家族』である」というイエスのビジョンが示されています。
では、12 章の配列を観ておきましょう。①安息日論争(12:1-14)、②異邦人に届く神の招きの預言(12:15-21)、③「イエスの業は悪霊なのか」論争(12:22-32)、④実の善し悪しと木の本性(12:33-37)、⑤ヨナのしるし(12:38-42)、⑥自分の家にそぐわない姿になった悪霊のたとえ(12:43-45)、⑦イエスの真の家族はもはや血縁ではない(12:46-50)。

イエスが生きた時代の「ユダヤ教信仰」の姿は、「律法遵守こそが救いの道」、「律法を守れることこそが救いの証」だと堅く信じられ、また強く教えられていました。それができない人々に「罪人」の烙印を押し、その宗教的恐喝によって民衆を支配していた先鋒が、律法学者やファリサイ人たちです。彼らはイエスに「救いのしるし」「救い主の証」を見せて欲しいと要求します。それに対しイエスは「ヨナのしるし」を突きつけます。宗教指導者たちは、自分たちの握りしめているものの外(そと)に、「神の働き」も「救いのしるし」も存在しないと思い込んでいるのですが、イエスは神の霊がすでに貧しい人々や病人たちの中に働いていることを告げています。たとえ異邦人であっても、悔い改めに導かれ、新しい民(エクレーシア)の一員とされるだろうと語ります。「ニネベの人々が悔い改めた『ヨナのしるし』」、この「ニネベの人々」が、今の時代の、(あなたたちのような)「自分ファースト」な人々を逆に罪に定める「しるし」となるだろう、とイエスは切り返しつつ、イエスご自身こそが神の愛の「広がりのしるし」だと告げられたのです。吉髙叶

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