2021年8月22日礼拝「逃れる道」

コリント信徒への手紙一 10章13節

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリント信徒への手紙一 10章13節)

人は誰でも問題にぶつかります。課題を負いながら生きるのが人生と言えるかも知れません。私はNPO ガンバの会で、生活困窮者やホームレスの人たちと関わらせていただいておりますが、その当事者が背負う重荷に圧倒されて、翻弄されてしまうことがよくあります。その時に、このコリントの信徒への手紙にあるみ言葉によって、いつも励まされ、慰められています。
現在も、ギリシア共和国にあるコリント(コリントス市)は、港町で古くから栄え、多種多様な文化交流があったと思われます。そしてこの手紙は、使徒パウロが紀元54 年頃に書いたと言われています。パウロが以前、ギリシア伝道の時に建てたコリントの教会では、信者が分裂し、偶像崇拝や性の乱れ等といった不道徳がはびこっていました。その知らせを訪問から帰った弟子から聞いたパウロは、きっと翻弄したかと思いますが、最も問題なのは、コリント教会の信者たちが、自分達は既に救われたのだから、古い律法や道徳に縛られることなく、新しく解放された自由の表れとして誇っていたというのです。しかし、コリントの人々を断罪する訳ではなく、ひとつ一つの課題にしっかりと回答し、コリント教会自らが答えを出し、それを信頼するパウロの姿に尊敬の念を覚えます。そして、このみ言葉。実は「試練」と訳されているのですが、英訳ですと「Thetemptations」で本来「誘惑」なのだそうです。確かにコリント教会の問題を考えると、ここは「あなたがたを襲った誘惑で~、耐えられないような誘惑に遭わせることはなさらず~」と訳した方がしっくり来る気がします。ちなみに、これはイエス様が福音書で悪魔から受ける「誘惑」と同じ「Be tempted」です。なぜそのような訳になったのかは不明ですが、今日私がお伝えしたいのは、「試練」でも「誘惑」でもありません。それは、「神様が『逃れる道』を備えていてくださる」ということです。
そもそも私たちに、目の前にある課題を乗り越える知恵や力があるのでしょうか。これは、的外れな私たちを憐れんでくださっている先回りの神様の愛と言えるでしょう。この「逃れる道」は、もはや偶像である己の力に頼ることなく、神様を頼るよう招いていることだと思います。そして、その道は、共に祈り、励まし、協力しあう希望に満ちた「逃れる道」であります。私たちキリスト者は、神様を誇り、努力を絶やさず、ただ「逃れる道」を、しっかり生きていくしかないのです。【中島浩司】

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